図書館で借りた本📖

 

 

 

先日読んだ本のつながりで。

 

 

【読書メモ】

 

わざわざ屋上屋を架すごとく新たに一冊のガン体験記を書くには、それなりの動機や情熱が必要である。わたしの場合、とにかく自分流に書いておきたい理由の一つは、従来の闘病記や生還記録に対してなんとはなしの不満があるからである。(p.8)

 

自然に年を取ってだんだん老い先が短くなっていくのとは違って、偶発的に寿命が限定される立場になるとこうした短さを鋭く自覚してしまう。短いとなると、根本的には何をしても空しいと感じるのが人情なのだ。(p.55)

 

すなわち手術創からすると、わたしは「臍下丹田」を切られていることになる。…そこをばっさり切られたのだから、声や気持ちに張りと勢いがなくなるのはしかたがない。(pp.55-56)

 

二言目には「早期発見、早期治療」が叫ばれるが、あれは医療界から発せられる需要喚起のためのコマーシャル・メッセージと心得ておくほうがよい。治せない病気なら「早期発見」したところで「早期不愉快」でしかないのである。(p.58)

 

つまるところ、検査・処置・入院もなんらかの侵襲を伴うということなのだ。(p.71)

 

インフォームド・コンセント

もともと医療の民主化に発したものというより、患者側が医療サイドに治療的な判断を一任できないと思いだしたこと、また医療側も一任されて結果がまずい場合に全責任を負うのがイヤなこと、要するに相互不信に端を発しているのではないか。(p.91)

 

たいていの病気に関して、確実に直せる技術がいきわたると、それまでの「生活上の注意」みたいなあやふやな養生法は強調されなくなる。たとえば最近の結核患者は、卵や牛乳で栄養を摂れ、転地療養しろ、カルシウム注射がよい、などとアドバイスされない。(p.103)

 

だいたい予防医学というのは、重要なわりにそれほど面白いものではないと見えて従事する研究者もそれほど多くない。(p.146)

予防活動を長期間続けないと成果が現れないというのも、励行を妨げるネックになっている。(p.147)

 

健康な時期というのは俗事に紛れるから五十年でも「ついうかうかと」夢のように過ぎてしまう。(p.159)

 

別の変化として、老後の生活や消費財の耐用年数が気にならなくなった。

…老年痴呆や老人性肺気腫などなりたくてもなれない。定年後の勤め先も最後に転がり込む老人施設も予定に入れる必要がない。…これは寂しくもあり、また気楽でもあるヘンな境地である。(pp.167-168)

 

これまで書くことが考えることであり表現することであり、そしてなにより自己確認だった。いや、もっと正直に言えば宇宙の虚無を紛らせてくれる活動だった。わたしもまた「倒れないための松葉杖」として、とにもかくにも思いを文章化していく作業が必要な人間なのだろう。(p.175)

 

気がつくと、わたしは生まれて初めて未来に束縛されずに生きることができる身分になっていた。(p.183)

 

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出版されたのは平成13年(2001年)。

ネットで見つけた情報によると、筆者が亡くなったのも2001年らしい。

この本を上梓して程なくこの世を去った、ということなのだろう。

 

とても「役に立つ」闘病記だと思った。

いや違う、タイトルによれば「耐病記」。

 

ワタシには必要ないので「読書メモ」には記さなかったが、ガンの基礎知識や治療についても、わかりやすく説明されている。

 

精神科医だということもあるだろうが、自分の心の動きをつぶさに観察し、かなり率直に記している印象を受けた。

自分や配偶者がガンになったとき、あるいはもう治らない進行性の病を得たときに、どういう治療を選び、どういう日々を送りたいか、考えるきっかけになった。

 

これでも鍼灸マッサージ師の免許持ちなので、本当の素人さんと比べたら、医学(西洋+東洋)の知識はあるし、その知識に基づく自分なりの考えもある。

 

筆者の考えは、概ね、ワタシの感覚に合致している。

 

健康のためには悪そうでも、好きなモノを、好きなだけ食べる。

イヤなことはやらない。

ストレスが溜まる人間関係は維持しない。

 

そして何より、特段に体調が悪くならなければ、医者には近づかないニヤニヤ

 

なんだ、これまでと変わらないじゃないか。

 

どうせ、いつかは死ぬんだもの。

その日まで、楽しく生きるほうがいい。