京都国立博物館で開催されていた『雪舟伝説』展にギリギリ滑りこみで観に行きました。




重文の『四季花鳥図屏風』。

雪舟らしい力強い筆致ではあるけど、後世の名だたる画家たちが、神格化する感じは受けない。


 

個人的には、国宝『秋冬山水図』が好きです。




どうも、「画聖」とまで呼ばれるのが、合点がいかず、『画聖雪舟の素顔』という本を読んでみました。

雪舟が拙宗と名乗ってた頃、無骨さとパワフルが持ち味の彼の画は、京都では受け入れられず、山口に移り住み、雪舟と名乗るようになったようです。

当時禅僧は、宗教者であると同時に、中国文化に通じた文化人、「文人」「詩人」でもありました。

その時代、画家の地位は低く、「画工」と呼ばれ、名が記されることもありませんでした。

今だと、文字は何が書かれてるか分からないから、画しか観ない感じですが。

雪舟は、自分のプレゼンスを上げるために、当時の著名人に詩文を依頼したとか。



 
画を描くには、紙も画材も貴重な中、パトロンの存在は重要。

雪舟のパトロンは、当時、日明貿易で巨額の富を得ていた大内氏。

雪舟も遣明使として、一行に加わりました。

雪舟のミッションは、当地の実体を画で大内氏に報告すること。

今で言えば、随行カメラマンのような役目だったとか。

そのため、「リアリティ」「分かりやすさ」「実用性」を兼ね備えた、当時の日本では画期的な、「写生風の風景画」を結果、描くことになりました。

また、頼まれれば、明など中国の画家の画風で描く器用な人だったような。

その上、明の事情にも通じてるということで、各地で名声が高まり、しまいには、京都でも認められるようになりました。





そして、大内政弘から命令され描いたのが、雪舟最後の大作『天橋立図』。

当時、80歳を過ぎてた中、山にも上り、舟からも写生をし、この鳥瞰図のような画を描きあげたのでしょう。

島尾新氏は「国宝『天橋立図』は、“諜報”の最高傑作だ」と述べてます。

雪舟の画の特徴は、このミッションにあったのかもしれません。

後世の画家たちは、雪舟のようなミッションがあったとは思えず、画の手法や構図を学んだだけなのでしょうか?

そこは、未だ分からないところです。




山口に、大内政弘が雪舟に命じて造らせた、「常栄寺」の庭があります。

雪舟は、利害が一致してたとはいえ、大内氏に働かされた一生だったなあと、つくづく思います。

庭好きなので、いつか常栄寺にも行ってみたいです。