司法と資本主義について、アンドリュー・マカフィーに捧ぐ
2000年問題の本質はここにある。2000年問題は、コンピュータの問題で語られるが、本質は、国や地方の形の話しだったのだと思う。
2000年頃、列車の連結が、「三権分立・小さな政府」−「司法と資本主義」というようなチェーンから前者が切り離され、後者がうまく滑り出さなければならなかった。
しかし、この知見に疎かった日本(特に福岡地域)は、相変わらず「三権分立・小さな政府」の連結を先頭にひた走ることになった。2026年の初めに「見えざるJapan crisis」が起きるまで、先頭は切り離されるべきだったものと気付かない方が大部分だったようである。
司法と資本主義は、いわゆる地方の課題・雇用を解決する最新の切り札でもあった。その切り札の存在に気付かないまま、26年ひた走った代償は大きいと言わざるを得ない。
司法と資本主義は、ただ、一方では「冷徹」である。司法もばっさり判決で二分された結論が下され、資本主義は、コミュニティの課題に目をくれない結論を導く。このように、ともに「冷徹」な存在である。
「冷徹」さを克服するための試みが、アンドリュー・マカフィーによって、「コミュニティの喪失により心の拠り所を失う」という課題に対してなされた。ただ、それも局部的なもので解決に至らなかった。私は、大変「コミュニティの喪失」の課題に関心があり、司法と資本主義の「冷徹」さをどうすれば緩和できるかの試みを行ったりしてみた。やはり、フリーライダーの課題と同じく、「冷徹」さを完全に排除することはできないという結論を導いたに過ぎなかった。
福岡県福岡市では、事もあろうに2026年の今になっても、相変わらず「三権分立・小さな政府」の枠組みから脱却できないでいる現実に直面している。その要因の最大の一つは、26年間市民も企業も「リスク」を取らないで生活、事業を行ってしまったことが挙げられる。「司法と資本主義」のフレームに行き着くには、「リスク」を取り「リスク」の扱いに慣れることが大事なのである。
2年前のツイッターで、私は司法と資本主義の具体的な政体を述べた。ここに(疑問はあるが)再掲しておく。
「立法府は縮小し(追記:行政立法をただ追認する機関のみ残る)、行政府は全国に税務署が出張所として残るのみ。警察はなくなり(国連で代替)、軍も志願制で維持するのみ。」
まあ、現時点で振り返るとかなり行き過ぎた様相を呈しているが、司法と資本主義についてのイメージが沸くのではないかと再掲したのみである。(再掲は、今私が新しく補足したのみ。)
また、機会あれば「司法と資本主義の研究」を少し紹介していきたい。