雪黙の福音書

雪黙の福音書

明日への道標になれば。

僕の現職は介護福祉士。


とある老健で介護士をしている。


今、壁が見えてきた。



『僕の介護技術は、介護老人福祉施設には向いているのだろうか』



『もしかしたら、ターミナルケア向きなのではないか』



一人の入所者の方がいる。


その方はショートステイで利用されている方で


自宅で生活をしていくための訓練として利用されている。


認知症はお持ちなものの、耳は遠いがコミュニケーションは明瞭な方である。


その方を通して思うことがあるのだ。


その方は決まって


トイレで排泄をした後に


リハビリパンツ


スボン


これらをしっかりと


自力では上げれず 


声がけや介助を要している。


ここでなのである。


プロとしての考え。



『どうすれば、この方が自力でリハビリパンツとズボンをキチンと上げられるようになるか』



その方は自分でしようとすれば出来る方である。


しかし、介護員に頼ってしまうのである。


口癖は


『今何なってだや?』


『何すれば良いんだや?』


まるで


サイコパスである。



僕は時間があるときであれば


『ゆっくりで良いがら、考えながらやってみでね』


って諭し言葉で声掛けし動機づけをしながら見守り


出来なかったら介助している。


だけど


大半が時間がない場合が多く


声掛け見守りもすることもなく


介助している事が多いのが現状である。


一つ一つの行動行為がゆっくりで丁寧なその方である。


主任からはこう念を押されている。


『優しさは時には仇となるよ。その方は自宅復帰のために来てるのだから、介助しちゃあダメとは言わないけれど、『自宅復帰』を念頭に置いた介助をしてくださいね。』


これはとても大切なことである。



介護老人保健施設は主に自宅復帰を目指す施設であり、ターミナルケアはするけれども、それは別である。



介護の言葉にこのような言葉がある。


『残存機能の維持活動』


これはその方の持つ残された自立度をなるべく維持していきましょうという事を指している。



『介護』と言うのは、その方の出来る事はもっと幅広く出来るように。そして、本当にできない部分だけに手を差し伸べて介助をしていく事である。


何もかもに介助を施していくのは『介護』ではない。



しかし、自分には後者の何もかもにな節があるのだ。


ジレンマを感じている自分がいる。



先ほどの『この方』。


リハビリパンツやズボンを上げ忘れている訳ではなく、実際、『上げる事』ができなくなっているのだ。


出来る事が出来なくなる境界線にいるのだ。




『この方に対して自分はどう介入してどう介助していけば良いのか見えなくなってきている』



壁である。





『もっと動機づけのテクニックを身に着けていきたい。』





そう考えさせられる壁である。