私の文章はそうとうしつこく推敲を繰り返すか、あるいは奇跡的に頭の冴えてる時に書かないと悪文すぎて自分でも読むのが大変なのだが、そういうこと言ってると全然更新する気がしないので、冴えてないときでもなんか少し勢いのあるときは脳の中で動いたものの記録として書きます。
結局のところ、私が好ましいと感じる短歌、いいなあと思う短歌は、文章として好きだということにすぎないのではという気が最近してきた。好ましい惹かれる文章が短歌として読めた場合それを好きな短歌だと思うらしい、ということだ。
私は、近頃やっとほんの少しだけ現代詩が“読める”気がしてきたのだけど、“読める”詩はあくまで好きな詩だけにかぎられてて、それ以外はまるで読めない。で、好きな詩というのは文章として好き、文章が(詩において)好きなのであり、じっさいその人の書く文章(詩ではない散文)も好きな詩人の詩を、好ましく感じることがわかってきた。安川奈緒は詩集のあとがきとか現代詩手帖の連載の文章もすごくいいし、最果タヒのブログなどでの文章もとても好きだ。そのことを確認すると彼女たちの詩にもそれと同質の“文章”を感じるから好きなのだということがあらためてよくわかる。それ以外のことは無関係ではないが順位が低くなり、文章として受け入れられないとそもそも読むことができないし、私の受け入れられる文章の質の幅(高低ではない)はひどく狭い。
短歌では文章として読む以外の読み方も少しはわかるので、現代詩ほど「文章の好み」に依存することはないものの、それでも特別気を張った状態でなくても読めて、何か底のほうで肯定できる感じのする作品は“文章”として好きな歌だと思う。
たとえば「pool」同人の山崎聡子の作品がすごく好きだけど、「pool」vol.6にのっていた連作はそんなにいいと思わなかった。早稲田短歌のサイトで読んだ旧作がちょっと凄すぎるせいもあって、読むときあらかじめ身構えてる位置が高すぎたせいかもしれないが。ただ、どちらにも同質の“文章”があってそれは文体的な同質さというだけでなく、そもそも私が“文章”をつよく感じるタイプの短歌だということでもある。その“文章”は今この時間と場所に生き残る日本語の中で短歌に手を出すにあたって、拠り所となるきわめて信頼できる匂いのする不自由さを備えたものだ。(文章というのはそもそも不自由なものである。)
あるいは「町」同人の瀬戸夏子の作品を短歌として読めている自信はないけど(それは多くのばあい現代詩によく似ているように見える)、かたちが短歌らしくないだけにそこに私は当然“文章”を読みにいくことになり、そして好きな“文章”がそこにあることを知ることで私は瀬戸の作品を、作品としては理解できないままいきなり“文章”として信用して読んでいる。
私は詩がわからないので、短歌を作品として梱包してたりジャンルの上位概念としてあったりする詩として好きだという話ではなく、やはり(瀬戸の作品も)文章として好きなのだと思う。つまり上にあげた好きな詩人の場合もそうなのだけど、その作品が具体的にそういうかたちをしてること(たとえばその語で始まりその語で終わっていること、そこで改行されていること、など)の意味とか価値を理解する能力が私には欠けてる。ただその作品に流れ込んでいる、あるいは作品の材質となっている文章が好きでその文章をもっと読みたい、読んでいたいという欲求にその作者が応えてくれるだろうという、期待の場として作品があるということだ。
ここであてている“文章”という語は、本来私が名指したいものとくらべてかなり広めの範囲をさす単語であるけど、たぶんぴったり隙間なくそれを囲む言葉は(少なくとも私の頭には)まだ存在しないのでとりあえず“文章”と呼んでおく。
これは映画について語るとき作家の「文体」と呼ばれるものに近いような気がするが、文学を相手に「文体」と言い出すと映画で使う場合のような比喩的な距離が消えてしまうので、やはり文体ではなくてここでは“文章”を使う。