「風通し その1」初版が完売して、増刷が決定したそうです。
この機会をお見逃しのないよう。いずれ入手困難になったあかつきには、途方に暮れるあなたに私が手持ちの分をプレミア価格で売りつけて暴利を貪る、ということになりかねませんのでご注意を。
お申し込みは
kaze104@gmail.com
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メールの件名は「風通し購入」とし、
1)お名前
2)ご住所(マンション・アパートの場合は、建物名も)
をお知らせください。
折り返し、お支払方法など斉藤斎藤さんよりお知らせが届きます。
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私は文学作品に接するとき、「こんな場所も歩けるのか」「こんなところにも道があったのか」と思い知らされたい。思い知ってぎょっとしたいという期待を抱いているのですが、短歌という道はそれを期待するには短すぎる。ではこの道で私は何を見たらいいのか。
「風通し その1」掲載の連作で、そういう意味で私がとくに惹かれたのは石川美南さんと斉藤斎藤さんと永井祐さんの作品です。
短歌は57577の形式という、言ってみればたった一本の同じ道を繰り返し歩くだけのジャンルです。こないだ歩いたとき蕾だった花が今日は咲いてるとか、いつも吠えられる犬がいないけど散歩中かなとか、そういう微細な違いに目を凝らして味わうようなところがある。
それではちょっとどうかというんで、楳図ハウスみたいな家を沿道に並べてみたり、家のドア全部に派手に落書きして回ったりすると、それは逆にかえってそこが同じ道であることの倦怠を深めてしまう気がするのですね。
本誌の石川さんの連作は、このたった一本道の沿道を眺めるのにひどく行き届いた、手の込んだガイドを手渡してくる。普通に外の世界で、使いやすくて面白いと評判になる旅行ガイドが書ける能力があるはずなのに、なぜかこの一本道にこだわる。世の中の需要が何桁も少ない方のガイドを隅々まで充実させるというこの倒錯が、内側にこじあけようとする違う景色。
斉藤さんの作品は、一本道の沿道の家の中のほうを読者に歩かせる。玄関を入ってトイレの窓から道をちらっと見て、掃き出しから裏庭に出て垣根の隙間をくぐって隣家の風呂場に失礼すると、湯船で鼻歌うなる爺さんに会釈して居間で猫撫でながら二階に上がってベランダから道をちらっ見て、となりの屋根に飛び移ったら鍵がかかって入れないのでさらにとなりの家の庭木へ……という道中にちらっと見るたび例の一本道はつねにそこにある。
永井さんの場合は沿道にほとんど何もなくなっている。更地のような土地で見るものがないから足元を見て、道路の白線のかすれとか小石のちらばりに見とれていると、十円を拾う。所持金の百十円と合わせて缶コーヒーが買える。と思って自販機をさがせば、自販機はないのだが遠くにぼんやり山の稜線が見えたり、点のような飛行機が雲をひっぱって空を縦断しているのに気づく。更地のむこうに。
これらは道(短歌というジャンル)と作品との関係について今思いついたたとえ話なので、こういう内容の作品では全然ないのです。
実際にはパンダが脱走して歩き回り、展示されている死体標本を見に出かけ(パンダがではない)、ズボンを欲しがったり(パンダがではない)買ったり(パンダがではない)しています。
このどこにも通じていない道で何を見るのか。私の読み方はおのずとそういう部分に偏ります。どこにも行けないのに道である。この矛盾を作品がどう引き受けているのか。
どこにも行けないことによって、道そのものを提示できるのが短歌なのだろうと私は思うわけです。