歌人・穂村弘の不幸は、同時代に穂村弘以上の批評家を持つことができなかったことだろう。
それは現代短歌にとっておそらく最大の不幸でもある。短歌の現在からその少し先に向けた見事なパースペクティブを取り出してみせることに、穂村以上にすぐれた手腕をもつ批評家は誰もいない。
だがそのパースペクティブには当然のように、穂村自身の輪郭が抜け落ちているか、きわめて遠慮がちに小さく書き込まれているにすぎない。
穂村以後に短歌の現在を語る者の多くがそのパースペクティブを踏襲するので、現代短歌を語る言葉から穂村の名は不当に書き落とされているのが現状だと思う。
むしろ穂村や、そのうしろに連なっている(ように見える)者たちを端から批判する側の言葉にだけ穂村の名が頻繁に引き合いに出されるのだ。
この歪んだ構図はおそらく是正されることはないだろう。歪みが歪みに見えない場所からしか誰も短歌を見ていないからだ。