こんにちは。ひさしぶりの投稿です。
昨年ネットプリント(登録したファイルをコンビニのマルチコピー機で印刷するサービス)を使って「天才歌人ヤマダ・ワタル」という小説を二度にわたり配布しました。
その初回配布からもうすぐ一年経つので、同小説をPDFで公開します。
やや時事的な内容を含むので配布は昨年かぎりにしようと思っていましたが、メディアの性質上後から参照することが困難なため、遅れて関心を持った方々へのアリバイ的にここでファイルを公開することにしました。
内容は二度目(11月)の配布時のもので、平岡直子さんによる解説文「負け戦に寄せて」(必読!)がついています。
https://drive.google.com/file/d/1sBtjljZIlbvyZfhZ6nR89WA6V0zLTj-M/view?usp=sharing
公開にとくに期限は設けませんが、予告なく公開を停止することもありますので興味のある方は早めのダウンロードをお勧めします。
なお現在はツイッターの下記アカウントで我妻に関する告知などをしています。
https://twitter.com/agtmtsk_bot
あんなにいた子供たちが一人になって河のほとりを歩いてるきみは
北極のすごいところをすべて挙げみちたりた気持ちの繁華街
横断歩道をむりにつなげて明け方の冬の地鎮祭の出口へと
電車の中が馬鹿な息でくもっていく夜の続きと朝の手前に
高いところから飴玉をわたすのも変わりやすい今日の天気よ
かんぺきに安全な野宿死ぬことはあらゆる靴紐がほどける
ひこうきは頭の上が好きだから飛ばせてあげる食事のさなかに
これは絵はがきですと地面に足で書く なんという雨の球場だろう
踏切をゆっくり渡ってみたくなる むこうの声の中の鳥たち
あばら家にセクハラ日本一にかがやく盾と五分咲きのゼラニウム
他人のディズニーランドが夜のはまなすを飾るのが見えたすぐ来てくれ
帽子ってあなたが買えば似合うから夜には街灯に照らされて
デパートをゆっくり星にあけわたす 星はどこにでもやってくる
とびはねる表紙のバッタうれしくてくるいそうだよあの子とあの子
鳥の群れになったつもりであるいてる夜、夜、夜とかぞえられつつ
定型に身を預けて支えられて立っている言葉は(どんなに美しくても面白くても)短歌というジャンルが滅びればかたちを保っていることができないのでともに消えてしまう。
言葉が言葉で自らを支えて立っている歌は短歌が滅びても何らかのかたまりとしては触わることができるはずだし、その残ったかたまりからもう一度短歌(のような何か)が生まれ直すこともあるかもしれない。
その、生まれ直したのちの短歌(のような何か)を触っているようなつもりで歌をつくったり読んだりしていきたいものだと思う。
言葉が言葉で自らを支えて立っている歌は短歌が滅びても何らかのかたまりとしては触わることができるはずだし、その残ったかたまりからもう一度短歌(のような何か)が生まれ直すこともあるかもしれない。
その、生まれ直したのちの短歌(のような何か)を触っているようなつもりで歌をつくったり読んだりしていきたいものだと思う。
諸事情から現在ツイッターのアカウントを休止しているのだが、そのかわりというか留守番役として自分のbotをつくって置いた。
https://twitter.com/agtm_bot
現在の設定では、私の過去の短歌を二時間おきにランダムにつぶやくはずである。
自分の全短歌を登録して短歌的な分身にしてしまおうかと思ったが、登録できるツイートの上限が700で、現在600以上登録したがまだだいぶ未登録の歌がある。
どうやらなんらかのかたちで既発表の歌(のうち、現在確認できるもの)だけで1100首以上はあるらしいと分かってきた。
意外と多いのだ。
これまでの登録はほとんど「選」抜きで、題詠ブログの年度ごととか、連作ごとなどにカタマリでばんばん登録しているが、もう上限が近いのでそろそろ「選」をしなければならない。だがものすごいてきとうな歌と傑作が混じって偶然出てくるクジ引きのような感じは失わないようにしたい。はずれくじのような歌は大いに必要だ。次何が出てくるか楽しみで自分でもつい何度も見にいってしまう。
https://twitter.com/agtm_bot
現在の設定では、私の過去の短歌を二時間おきにランダムにつぶやくはずである。
自分の全短歌を登録して短歌的な分身にしてしまおうかと思ったが、登録できるツイートの上限が700で、現在600以上登録したがまだだいぶ未登録の歌がある。
どうやらなんらかのかたちで既発表の歌(のうち、現在確認できるもの)だけで1100首以上はあるらしいと分かってきた。
意外と多いのだ。
これまでの登録はほとんど「選」抜きで、題詠ブログの年度ごととか、連作ごとなどにカタマリでばんばん登録しているが、もう上限が近いのでそろそろ「選」をしなければならない。だがものすごいてきとうな歌と傑作が混じって偶然出てくるクジ引きのような感じは失わないようにしたい。はずれくじのような歌は大いに必要だ。次何が出てくるか楽しみで自分でもつい何度も見にいってしまう。
今年の私はなんと今日までなので何か言い残したいことを書いておこうと思う。
今年をふりかえるのではなくて来年のことをちょっと言っておきたい。
来年は何人かの自分にとって大事な歌人についてもう少し何か核心的なことが言えるようになりたいと思っている。
たとえば私は平岡直子の作品についてはほかの人々より少し多くのことがわかって言えるのではとひそかに信じているところがあるし、斉藤斎藤については個々の作品について言えることは多くないが、作家としての斉藤の仕組みなどにはほかの人たちに少なからぬヒントを与えられるくらいのことは言えるだろうと思い込んでいる。
だがたとえば第一歌集の出版が近いと噂される山崎聡子の作品については、早稲田短歌掲載の連作(「キンダーガーデン・シンドローム」)をほとんど奇跡的な傑作だと思い自分自身も深く影響を受けているのに、分析どころか未だまともにその魅力を伝える言葉さえ持たないままである。また、今年第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』でその全身をあらわした瀬戸夏子については手さぐりでいくつかのことにふれてきてはいて、いずれも意味ある指摘を含むとは思いつつ核心的な部分にふれることをあらかじめ避けることで可能になっている及び腰の言葉になっていないという自信はない。点をつないで線とするにあたり見逃しているというより、見ぬ振りをし触れずにすませてきた点をあんなに残しているじゃないかとうしろめたささえおぼえる。
私は短歌のことを考えることなしには短歌をつくることができないので、今後もつくり続けるかぎり私に影響をあたえ続ける作者に言葉が向かうことを避けては通れない。言葉にできない、ということの幸福の先にあるものもなんらかの意味で幸福であると覚悟して言葉には血を流させねばなるまい。
私は短歌愛はもとよりあらゆる意味での愛にあふれているとはいいがたい人間だが、こうした作者たちが短歌という場所で世界にほとんど身を捧げ尽くしているかに見える瞬間には動揺とともに愛という言葉を思い浮かべずにおれないし、そのとき感応して自らの乏しい愛をふりしぼることをもってこたえずにはいられないと思う。
このような作者の作品の宿る場所としての短歌には、歌壇とか短歌界とかあるいはジャンルとしての短歌さえ視界から一掃したのちになお、そこにとどまるべき理由があるのだと思える。私が短歌とかかわりつづけるとすれば、短歌が豊かであるからでもまたほどよく貧しいからでもなく、短歌への愛があるからでもなく、短歌にしか語らせることのできない世界への愛をこうした作者において目撃したという記憶が新鮮であり続けるからにほかならない。
今年をふりかえるのではなくて来年のことをちょっと言っておきたい。
来年は何人かの自分にとって大事な歌人についてもう少し何か核心的なことが言えるようになりたいと思っている。
たとえば私は平岡直子の作品についてはほかの人々より少し多くのことがわかって言えるのではとひそかに信じているところがあるし、斉藤斎藤については個々の作品について言えることは多くないが、作家としての斉藤の仕組みなどにはほかの人たちに少なからぬヒントを与えられるくらいのことは言えるだろうと思い込んでいる。
だがたとえば第一歌集の出版が近いと噂される山崎聡子の作品については、早稲田短歌掲載の連作(「キンダーガーデン・シンドローム」)をほとんど奇跡的な傑作だと思い自分自身も深く影響を受けているのに、分析どころか未だまともにその魅力を伝える言葉さえ持たないままである。また、今年第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』でその全身をあらわした瀬戸夏子については手さぐりでいくつかのことにふれてきてはいて、いずれも意味ある指摘を含むとは思いつつ核心的な部分にふれることをあらかじめ避けることで可能になっている及び腰の言葉になっていないという自信はない。点をつないで線とするにあたり見逃しているというより、見ぬ振りをし触れずにすませてきた点をあんなに残しているじゃないかとうしろめたささえおぼえる。
私は短歌のことを考えることなしには短歌をつくることができないので、今後もつくり続けるかぎり私に影響をあたえ続ける作者に言葉が向かうことを避けては通れない。言葉にできない、ということの幸福の先にあるものもなんらかの意味で幸福であると覚悟して言葉には血を流させねばなるまい。
私は短歌愛はもとよりあらゆる意味での愛にあふれているとはいいがたい人間だが、こうした作者たちが短歌という場所で世界にほとんど身を捧げ尽くしているかに見える瞬間には動揺とともに愛という言葉を思い浮かべずにおれないし、そのとき感応して自らの乏しい愛をふりしぼることをもってこたえずにはいられないと思う。
このような作者の作品の宿る場所としての短歌には、歌壇とか短歌界とかあるいはジャンルとしての短歌さえ視界から一掃したのちになお、そこにとどまるべき理由があるのだと思える。私が短歌とかかわりつづけるとすれば、短歌が豊かであるからでもまたほどよく貧しいからでもなく、短歌への愛があるからでもなく、短歌にしか語らせることのできない世界への愛をこうした作者において目撃したという記憶が新鮮であり続けるからにほかならない。
