前漢の領土は、拡大政策を続け、倭の近くまで広がった。

 

 

漢は、紀元前100年に楽浪郡、帯方郡に加えて、高句麗に城を作り統治を目指した。

 

高句麗族は、県城を攻撃し城は、漢の城は他へ移った。そして、扶余から逃れてきた朱蒙が、紀元前37年卒本に高句麗を建国する。騎馬民族の城は、簡単な山城だった。

 

 

 

紀元前100年ごろの倭は、100余りの国があり、漢と使者や通訳が往来していた。…漢の記録に書かれている。漢は、倭の風俗もよく知っている。歴史じゃ弥生前期なんだけどね。現実はもっと、世界とつながっていたってことだよね。

 

 

高句麗では、王位継承のゴタツキがあり、209年ごろ鴨緑江に近い国内城に移った。

 

 

 

 

このころ倭では、57年倭奴国王が、後漢から金印を授かっている

 

107年倭の国王が、後漢に奴〇を送っている。ちょうどこのころ蝦夷平定をしている。

 

魏志倭人伝に、このころ倭は、漢・ワイとともに弁韓辰韓の鉄を取るという記事もある。

 

178年後漢書に鮮卑の力が弱まり、人口増大で食糧不足になり、倭人を100人捕まえて遼寧省付近の魚を取らせたという。

 

 

このころ倭では騒乱が続いていた

このころ鉄器が入ってきたんじゃないのかな?

人骨に傷のあるのがあるんだって。

最新の兵器を持つものが勝つ。

 

 

 

188年ごろ卑弥呼が、邪馬台国をまとめる。

 

半島では、公孫氏が、楽浪郡を領有する。

199年金首露王の死はこのころか?

高句麗は、まだまだ拡大してはいない。

 

漢の勢力が弱まる中で、それぞれの国が動き出す。