当初わたしは、この感覚を「魂が起き上がった」体感として捉えていました。力強さ、ポジティブな意思、悦び…言葉にしてしまうとどれも陳腐でしかありませんが、その力は自らが語っている力でした。
しかし、今現在から見ると、それは確かに物理的に「在った」ものでした。
例えて言うなら、胸に妊娠して胎児が居たように確かに存在していました。丁度2年間の妊娠期間でした。
その存在は、映画「ハウルの動く城」に登場する炎のようです。
そして、わたしはその悦びの炎を周囲の仲間となってくれる人々にキャンドルサービスか、オリンピックの聖火のように渡そうとしました。
その存在は、じんわり始まり、じんわり去りました。やる気が無くなったとか、燃え尽きたというものではありません。
物理的にあったものが、今は無いのです。
その存在は、天と繋がっていて、色々言葉を発しました。わたしにも、聖火を渡す人にも。
在る時も、無い時も、天の見えざるゲームプレイヤーのようにわたしという駒を動かす存在を感じます。それはわたし本体なのかもしれません。
今は自転車の補助輪を外したようにその“ランナー”は去り、セカンドステージ、2年生になったみたいです。
パワーアップして戻ってくるのか、どの様に変容するのか、さっぱり分かりませんが、直後は産後鬱のようになりました。幸せホルモンが出ていた胸の妊娠期間が終わったようでした。
そして、体が地球に生まれた時のデフォルトに戻りました。重く疲労し易く、憑かれ易く、朝ネガティブな思考がダウンロードされることもあります。
しかし、その様子をつぶさに観察している視点は消えずにあります。
地球仕様にカスタマイズするには、必要みたいです。
(追記:1月中頃に風呂の栓を抜いたように続いた霊障は、6月の夏至に高熱を出し、微熱が2週間出て、底をついたなぁ、と思ったらおさまりました。)
あの存在が胸に在った時は、スーパーマリオのスターって言うのかな?無敵状態のようで、疲労回復も比較的早く、風邪もひかず、霊障も軽かったです。肉体の体調不良は、ちょっと氣をつければ大丈夫でした。
わたしの周囲には、所謂霊能力者の方々が、職業にしている人もしていない人も合わせて、ゆうに片手以上はいますが、誰一人として、この存在自体を感知した人はいませんでした。
そのときわたしは理解者を強く求めましたが…
さて、最近の學びのメモをしておきますね。
自分も他人も責めていると「反省」ができないものなのですね。
運氣を良くするには「反省」が必要です。
性根、心根が綺麗にならないと運氣は変わらないようです。
愛と恐怖は共存しないように、どちらかがあると、どちらかは存在しないものってありますね。
責める心と感謝も共存しないのでしょう。
欲しいものや良いものを貰って感謝するのは当たり前。必要なことをやってもらって感謝するのも当たり前。得して感謝するのも当たり前。
えてして感謝されないような善行は、見えづらいものです。
気付きと理解を伴わない「反省」は無いし、冷静な自己観察、自己をより深く知ること無しに反省は起こらないでしょう。
「悔い改めよ」と反省を促す言葉がありますが、これは叱責ではありません。「ここで靴を脱いでください」という案内と同じようなもの。そうしないと先に進めませんよ、というご案内。
「でも、世の中悪い人でも上手くいっている人っていますよねー」
確かにそうです。地球で何をしようとして来ているか、人それぞれ違います。悪の経験を意図した魂もいるでしょう。
わたしは魂を綺麗に磨くのを人生に意図したのなら、他と比較はできません。
自己憐憫や被害者意識も、極に振れている点で、責めの一種かもしれませんね。陰謀の事実を知った時の心理とかも。
今の社会は、そういった心理が無料オプションで抱き易い構造、システムになってますから、用心が必要ですね。
第一段階、頭での理解はここまで。
第二段階、心での理解。運氣が答えを見せてくれる。そのための人生。
さあ、いきますか!