芥川龍之介の短編小説「蜘蛛の糸」
カンダタとお釈迦様の物語
この蜘蛛の糸が、青だったら登り切れたかもしれない…などと思いつつ
今ではオンラインで氣軽に読める時代なのですね。
この一文が改めて、重要なメッセージでした。
「自分一人でさえ断れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
そこで
陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に
陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから
陀多もたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。」
三次元的な一般物理法則の発想で、チャンスを活かせなかったのですね。
まさに、今のわたしに降ろされた蜘蛛の糸の言葉でした。
蜘蛛の糸が青だったら、と思わなければ、この小説を再読しようなどとは思わないのですから、どこからどこまでも天のはからいです。
小説は続きます。
「後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて
陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、
陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。(大正七年四月十六日)」
モーセの海を割った後に続く追手が海に飲み込まれた物語の霊的意味合いと同じく、奇跡の道を歩み出したら、振り返って古い常識や古いやり方に後戻りすると命取りなんですね。
身を滅ぼす危険が追ってきます。
危険は奇跡の未来の方ではないことを、早く理解しなければなりません。
それがなかなか難しいんだなぁ。
2025.9.8追記
「見真実」してしまったら、「顕真実」まで一本道しか存在しない。
後ろを振り返っても不退転。引き返すのは危ない。
前にも後ろにも進めないと、立ち止まるわけにもいかない。命が危うくなる。
前進しか選択肢がない。
頭で知って、腑(体)に落とさない、実行しない、本当の理解をしない、現実化しないのは、あり得ないのでしょう。
王仁三郎さんは
「旧九月八日までに
きれいに掃除しておけよ。
残る心ケダモノぞ。
神となれば、食うことも着ることも
住む家も心配なくなるぞ。
日本晴れとはそのことざぞ。」
と伝えている。
今と真逆。
人は衣食住のためと称して、肉体のマインドにしがみついて離れられない。
天は、手放せ、シフトしろ!神になれ(神に戻れ)と言っている。
戦々恐々です。
そして、わたしは進軍し続ける
追記:
戦々恐々と書きましたが、自分の中に恐怖心がこんなにも散らかっていて、足の踏み場も無いことに氣付き、愕然としました。
恐さの中には、
映画「インセプション」や「マトリックス」で描かれているようなものもあるな、と思いました。
「インセプション」で潜在意識に潜入した時に、潜在意識に異質なもの、異物として氣付かれてしまう恐さ。
「マトリックス」でスミスに氣付かれてしまう危険性のような恐さです。
上手く描かれているなぁ、と思います。