松尾芭蕉にまつわる都市伝説!(信じる信じないはあなた次第)

 

20日の「奥の細道ルート地震」の続きになります。18日に「新潟6強・山形6弱」が起きた際、過去に照子さんが今後の地震について、「松尾芭蕉が訪れし場所にヒントあり」と仰ったことを思い出しました。

 

◆1680年、芭蕉が深川芭蕉庵に転居

 

◆松尾芭蕉の行程全体図

(※赤が奥の細道、緑が野ざらし紀行、青が鹿島詣、紫が笈の小文、オレンジが更科紀行)

 

松尾芭蕉(1644~1694年11月28日三重県伊賀市出身)の紀行文は「奥の細道」だけではなく、他に4作品あることがわかりましたので、これらの行程をご紹介します。

 

◆野ざらし紀行(1684年秋~1685年春)

 

東海道を上り、伊勢山田・伊賀上野へ。千里と別れて大和・美濃大垣・名古屋・伊賀上野へ帰郷し越年。奈良・京都・大津・名古屋を訪ね、江戸へ帰るまでの9か月にも及ぶ旅。

 

◆鹿島詣(1687年)

 

 

深川での生活を始めてから7年すぎた貞亨4年(1687年)、名月を見るため、門人曾良・宗波を伴い鹿島、潮来方面へでかけた旅。深川芭蕉庵から舟で行徳へ。陸路で八幡・釜ヶ井(谷)・布佐。夜舟で鹿島根本寺に至る。翌日、鹿島神宮に参詣し、芭蕉参禅の師といわれる仏頂和尚を訪ねて1泊し、雨間の月見をする。

 

◆笈の小文(おいのこぶみ:1687年冬~1688年春)

 

芭蕉は江戸を発ち、東海道を上り尾張の鳴海・熱田へ。門人越人を伴い、伊良湖岬で杜国を見舞う。再び鳴海・熱田・名古屋で当地の俳人たちから歓迎を受けて連日句会に出席。歳末に伊賀上野へ帰郷して越年。

 

伊勢で杜国に会い、再度伊賀上野へ帰郷し父の33回忌を営む。春、杜国と連れ立ち、花の吉野へと向かう。和歌の浦・奈良・大坂・須磨に至り、京都に入るまでの6か月の旅。

 

◆更科紀行(京都から江戸への復路:1688年春)

 

芭蕉は門人越人を伴い岐阜を発ち、信州更科へ名月を見る旅に出る。木曾街道を寝覚の床・木曾の棧橋(かけはし)・立峠(たちとうげ)・猿が馬場を経て、8月15日夜、更科に到着。姨捨山の名月を見て、善光寺より碓氷峠を経て8月下旬、江戸へ帰る。

 

◆奥の細道(1689年

 

弟子の曾良を伴い、下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前などを巡る旅に出た。8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごした。

 

 

(参考)俳聖 松尾芭蕉-芭蕉翁顕彰会HP松尾芭蕉(Wikipedia)

 

「更科紀行」の説明におきまして、「碓氷峠」「姥捨山」が出てきましたね。碓氷峠については、2016年に起きた「軽井沢スキーバス事故」の記事で碓氷バイパスに触れておりますし、映画「人間の証明」に碓氷峠が登場してくるのをハッキリと記憶していました。

 

バス事故03

 

(過去記事)長野県信濃町で腐った巨木が倒れ(2016/11/3)

日本武尊と弟橘媛、そして走水神社(2017/1/22)

 

標識に川中島古戦場(5/17撮影)

 

そして・・・姥捨山ですが、5月中旬の「草津・信州の旅」におきまして、姥捨サービスエリアからの眺めが最高だったので動画を撮影していたのです。何か長野県と群馬県に関係あるのでしょうか?