「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされる説に以下が挙げられる。

 

◎江戸時代中期の安永年間、江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋付近の店で、桶狭間合戦にもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となったため、一般名詞化して広がったとする説がある。

 

 

◎現在の静岡県中部にあたる駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である二つ引両(引両紋)を由来とする説がある。

 

明治時代は庶民のおやつとして大流行し、森永製菓創業者の森永太一郎が「焼芋屋と今川焼がある限り銀座での西洋菓子の進出は困難」と言うほど、盛んに売られていた。(引用終了)

 

 

今朝のわたしの夢です。「今川焼きが由来の小学校~」と言われ、小学生がたくさん写っている写真が見えました。ただし、楽しそうな表情ではありませんでした。ショボーン

 

 

「今川焼き」はわたしも大好きですが、北海道では「おやき」ということが多く、他地域では、大判焼き、回転焼きと言うそうですね。

 

「今川焼きの由来」を調べてみましたら、現在の神田駅前に「今川橋交差点」という形で残っており、「今川橋跡碑」があります。

 

東京都千代田区の歴史より引用

今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたものでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。

 

 

神田掘は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。昭和25年(1950)龍閑川は埋立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。(引用終了)

 

上記の説明によりますと、千代田区と中央区の境を流れていた「龍閑川」は戦後に埋め立てられ、その面影はすでにありません。

 

◎中央区・・・日本橋・八重洲・築地・月島・晴海・銀座など

◎千代田区・・・大手町・有楽町・内幸町・霞ヶ関・永田町・麹町・紀尾井町・神田〇〇(〇は神田の後につく名称)など

 

「千代田区、中央区、港区はどう変わってきたか 」より引用

 

現在見えている地形は過去からずっとそのままの形であったものではないという点。ご存じのように東京都心部は徳川家康入府の時点では海だった場所も多いエリア。そこを埋立て、河川を掘削するなどして江戸は市街化され、拡大。大きく変化してきました。

 

 

都心3区の地形の変遷の大きなキーワードは埋立てです。これには海、河川の2つがあります。まず、海についてですが、徳川家康が江戸に入った頃には武蔵野台地の東端に位置する江戸城の前には日比谷入江と呼ばれた入江が広がっており、その向うには江戸前島と呼ばれる半島が突き出ていたと言われます。

 

三代将軍家光の頃を描いた『武州豊島郡江戸庄図』

 

もうひとつの埋立ては川です。三代将軍家光の頃に描かれたとされる『武州豊島郡江戸庄図』(上図)を見ると、今はない、複数の河川が市中を流れていることが分かります。江戸時代の東京を描いた時代小説などにはその当時の江戸はイタリアの水都、ベネツィアのようだったとされ、以降水運の街であったことが分かります。

 

しかし、その後、多くの水路は埋立てられてしまいます。埋立てが大きく進んだタイミングは二度あり、ひとつは関東大震災。もうひとつは第二次世界大戦で、いずれも瓦礫や残土を処理するためでした。(引用終了)

 

安倍首相の「終わりの始まり」が始まった(2017/12/11)より

 

埋め立てには瓦礫や残土を利用しましたが、残土といって思い浮かぶのは、「リニア中央新幹線建設」に伴う大量の残土です。どこかの埋め立てに使うつもりとしか思えません。それも大量に必要な場所です。

 

山手線 (田端駅~西日暮里駅) の標高より

 

リニアは横に置きまして、今このタイミングで「龍閑川の埋め立て」に関する夢を見せられたのは、今後起こり得る洪水への警告じゃないかと思っているのですよ。そうそう、「今川焼きが由来の小学校」ですが、千代田区立今川小学校というのがありましたが、1993年(平成5年)閉校になっています。ではでは~お茶

 

はがゆい唇(平成4年 高橋真梨子)