向井side


 貴方に出会った瞬間に、幸せになれん恋だと分かってたのになぁ。


 「ん、こうじぃ…おきたの?」


 寝起きの甘えた声で俺の名前を呼ばんといてよ。


 「おはよ、ふっかさん」

 「おれはまだねたぃ、」


 布団を自身の頬のあたりまで引き上げて、再び寝息を立て始めていた。


 「そうですかー」


 わざとらしく耳元で少し大きめの声を出してやった。


 「…奥さん、今日帰ってくるんやっけ?」


 寝かせてたまるか。


 「そうだよぉ」

 「そ」


 もぞっと布団から顔を出し、口を少しだけ動かした。


 「ほんなら帰るわ、お邪魔になるやろ」


 昨日は身一つでふっかさんちに来てしまった。

 そのことを思い出して、パーカーだけ羽織り、急いでベッドから降りた、はずやった。


 「まだいなよ」

 「離してって」


 手首を捕まれ、引き止められた。


 「夜帰ってくるのに、今康二が帰る必要ないじゃん」

 「…別に今奥さんが帰ってきても、浮気だと思われんもんな、俺男やから」

 「別にそういう意味じゃないよ」

 「帰る」

 「今お前がいなくなったら寂しいって意味」


 本当に寂しそうに、俺の瞳を見つめてくる。


 「甘えんなよ」


 そう吐き捨てたくせに、俺は再びベッドの中に戻っていった。


 「はぁい」


 覇気のない返事とくるっとカールした前髪。

 この人のすべてを、愛してる自信があんねん。


 「次いつあえるの?」

 「いつやろな」

 「また急に家に来る気だ」

 「…昨日は奥さんおらんの知ってたし」

 「別にいてもきてもいいけど」

 「は!?」


 ほんまこの人は何いうとんねん。


 「えっちはできないけどねえ」


 くすっと笑って俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。


 「はぁ!?やめてえやもうっ!」

 「はいはい」



 子どもみたいな人なのに、どこかで香る大人の匂いに俺はいつも惹かれてしまう。


 「康二」

 「ん?」

 「かわいいな」


 またそうやって、俺をバカにすんねんな。


 「こどもじゃないんやからやめや」

 「かわいいんだから仕方ないじゃん」


 ふわふわ喋るふっかさんの声は、まるでキャラメルみたいやといつも思う。


 「…奥さんげんき?」

 「うんべつに元気」

 「よかったよかった」

 「なに、今日やけに茜の話するね」


 ふっかさんの奥さんは、茜さんという人や。

 すごく美人で、子犬みたいな人やった。


 「そう?」

 「そうだよさっきから」

 「そうかな」

 「なにかまって欲しくなった?」


 ニヒルに笑ったふっかさんに少し恐怖を覚えて、もう帰らなあかん気がした。


 「ちゃうよ、やっぱ帰るな」

 「…だからなんで」

 「なんか帰りたい。奥さん帰ってくると思うと悪いことしてるみたいで嫌や」

 「悪いことしたあとじゃんもう」

 「ちゃ、ちゃうやん!俺男やもん」

 「男なら…してもいいってこと?」

 「な!て、てか浮気してんのはあんたやからな!俺は結婚してないねんから!知らんけど!」


 知らんのかいとツッコまれた気がしたけど、慌てて玄関から飛び出した。


 「またやってしもた…」


 自分でもわかってる。

 早くこの関係を終わらせないと、誰も幸せになれんことは。


 深澤辰哉は俺の2歳上で、大学で出会った。






・・・・・


 「ねえお兄さん!」

 

 大学1年生。ようやく最近、生活に慣れ始めた頃やった。


 「お兄さんってば!」


 後ろから肘を掴まれ、驚いて勢いよく振り向いた。


 「え、!?」

 「お兄さんこれ落としたでしょ」


 紫色のハンカチを差し出してきたのが、深澤辰哉やった。


 「え、落としてないです。俺のやないですよ」

 「まじぃ?お兄さんから落ちたように見えたんだけど」


 そんなはずはなかった。

 紫色のハンカチなんて、持ってなかったんやから。


 「えぇ、そうなんですか?」

 「ていうかお兄さん、関西弁?」

 「あ、はい。奈良から出てきたんで」

 「えーめっちゃいいね」

 「そうですか?」

 「真似したくなっちゃう感じ」


 いつのまにか会話はハンカチから俺の話題へと移っていた。


 「お兄さん名前は?」

 「向井康二です」

 「康二!いい名前だね」


 風が吹いて、彼の髪の毛が揺れた。

 茶色に染められた柔らかそうな髪は、ふわふわ動いていた。


 「え、と…ありがとうございます」

 「俺の名前は聞いてくれないの?」

 「…あ、お名前は?」

 「深澤辰哉」


 アンバランスな瞳に惹き付けられ、アーモンドみたいな形やな、なんて思う。


 「ふかざわ、たつや」

 「そう!ふっかって呼んで、みんなそう呼ぶから」

 「ふっか、さん」

 「おー、なんか照れるね」


 そう言って彼が笑うと、また少し風が、危険な香りを混ぜながら吹いてきた。


・・・・・






 「康二〜おつかれぇ」

 「おつかれ」


 何度目になるか分からん朝帰りをかました俺に、同居人の阿部亮平は「おつかれ」と声をかけてくる。


 「阿部ちゃんご飯は?」

 「俺食べたよー、康二は?」

 「食べてないねんけど…今日はええわ」


 ふわぁっとあくびをして、阿部ちゃんが座っているソファに腰をおろす。


 「なんかあった?あの人のとこ行ったんじゃないの?」


 阿部ちゃんは唯一、俺がふっかさんと浮気していることを知っている。


 「昨日で辞めるつもりで行ったんよ。でも、あかんかった」

 「…そっかあ」

 「奥さんのこと、茜って」

 「うん」

 「茜って、大切そうに呼ぶから」


 思わず流れてきた涙は、ぽろぽろこぼれ落ちるくせに止まらへん。


 「おれなんか、じゃまやなぁって」

 「うん」

 「わかってたのに、しんどいねん」


 いつから狂ってしもたんやろうか。

 こんなはずやなかったのになぁ。


 「康二」

 「ん、」

 「俺はいつでも話聞くから」



 この人は、いつもそうや。


 「ありがとう」


 俺のことを慰めては、好きなだけ泣いてええよと抱きしめてくれる。

 その優しさに、今日だけは浸かっていようと、そう思った。


 「あの人はなんも言ってないの?」

 「なんもって?」

 「うーん、奥さんと別れたい、とか?」

 「あらへんよなんも。そういうのは」


 俺はずっとふっかさんに片思いしていた。

 19のときに出会ってから、今までずっと。


 「康二との関係を辞めたいとかもなく?」

 「それも…ないねん」


 ふっかさんの彼女が途切れることはあらへんかったし、俺はただずっと、仲がいい後輩枠やった。

 

 「うーん、何考えてるのかわからないね」

 「ずっとそうや、出会ってからずっと」

 「ただ、このままじゃ康二は不幸になるよ」

 「わかってるのになぁ」


 大学を卒業し、お互い社会人になり、働き始めると今までどおり関わり合うことも少なくなった。

 ただ、まめに、連絡がくるんや。

 「康二げんきか?」って、それだけ。


 「終わりにせな、もう十分やもんな」

 「俺は康二の友達だから、康二の味方をするけどね。一般的には、浮気って大罪ですからね」

 「俺も嫌や、浮気されたら」

 「でしょ」


 その「生存確認メール」に、いつもは「元気やで」って返すのに、その日はそう返せんかった。

 思わず、「会いたい」って送ってしもたんや。


 「どうすんの康二」

 「終わらすよ」


 そこから始まった約1年間の都合のいい関係は、終焉を迎えようとした、のに。

 いつもどおり、彼に抱かれたあと、突然結婚すると宣言されたのやった。






・・・・・


 「え、いまなんて?」

 「結婚すんの、来月」


 ケッコン。


 「だれと?」

 「誰って、知らないでしょ」


 くすくす笑って俺の頭を撫でた。


 「教えてや」

 「…橘茜っていうんだ」


 タチバナアカネ。

 名前から察するに、やっぱり女や。


 「付き合うてたんやな」

 「うん、2年半」


 そこでわかった。

 当たり前のように、俺は遊び相手やった。

 たった1年。

 ふっかさんの体が寂しいときに呼ばれるだけの関係。


 「そうかぁ、おめでとさん」

 「ありがとぉ」


 でも、なんも言わん。

 俺とはどうなりたいん?


 「辞めよか?会いにくんの」

 「別にいいよ、辞めなくて」

 「じゃあ会いに来るんじゃなくて、こういうの辞めよって言えばわかるん?」

 「えっち?」


 わざとらしく言葉にするのも、彼らしい。


 「なんで?やめたいの?」

 「おかしいやろ?奥さんおるのに!こんなん浮気と一緒やろ」


 苦しかったんやと思う。

 2年半と、1年。

 裁判になったら、間違いなく、浮気相手認定されるのは俺やもん。

 それに俺には、奥さんと違って、名前のつけられる関係やないから。


 「康二は俺のこときらい?」

 「きらいなわけ、ないやんっ、」

 「じゃあいいじゃん、今までどおりで」

 「せやからそれじゃ浮気やろ」

 「じゃあ俺と浮気してよ」

 「え、?」

 「デートに行ってもいいし、家に泊まってもいい。だから、俺と浮気してよ」


 意味がわからんかった。

 それでも、当時の俺は、その言葉に責任も持たずにすがってしまった。


・・・・・






 「ふっかさんに今夜会えるか聞くわ」

 「あれ、奥さん今夜帰ってくるんじゃないの?」

 「…全部、なるはやのほうがええやろ」


 そういうと阿部ちゃんは目を細めて笑って、えらいねと俺の頭を撫でた。ふっかさんみたいに。


 【今夜会えん?】

 【会えるよー】


 基本的にふっかさんが俺の誘いを断ることはない。

 ない、というよりは、滅多に誘わんから断らんだけなのかもしれんけど。


 【どこ?】

 【俺ん家くる?】

 【奥さんは?】

 【明日帰ってくるって。間違ってたらしいよわら】


 嫌な予感がした。

 それでも、よかった。長い間の片思いは、早く終わらせるのに越したことないやろ。






 ふっかさんの家に向い、いつもどおりLINEを入れる。それが「着いたで」の合図。


 「いらっしゃい」


 ふっかさんはいつもすぐに出てきてくれる。

 顔を見れば、また、好きになる。

 今まで何度それを繰り返してきたことか、もう分からへん。

 好きやな、やっぱり。


 「ほら、入りなよ」

 「うん」



 「なんかあったぁ?」

 「え、?」

 「康二から会いたいなんて珍しくない?」

 「…そうやな。話があってきたんよ」

 「話」

 「そう、話や」


 ソファに腰を下ろすふっかさん。

 俺は、ソファには座らず、床の上に座った。


 「こういうのもうやめよって言いにきた」

 「こういうの」

 「言いにきたわけやから、もう意思は固まってんねん」

 「こういうのってなに」

 「え、」

 「わかんないんだけど。俺と康二はやめなきゃいけない関係してたっけ」

 「…ほんまにとぼけてんなら、それこそやめな奥さん傷つけんで」

 「俺はお前と」


 ソファから素早く動いて、俺を床の上に押し倒した。


 「ちょ、ふっかさ」

 「康二といたいだけだよ」

 「…そういうのが、俺はもうできん」

 「別にしなくてもいい。体が嫌ならもうしなきゃいい。ただ、俺といてほしいだけだよ」

 「わがままや、そんなんは」


 都合がいい康二くんは、もうおらん。


 「康二、!」

 「俺らもう友達には戻られんよ」

 「友達じゃなくてもいいよ、なんでもいい」

 「そんなに俺がすきなん?」

 「好きだよ」

 「え、」


 初めてやった。

 そんなに強い眼差しを、ふっかさんから向けられるのは。


 「好きだって言ってんだろ」


 無理やり重ねられた唇は、やっぱり好きな人の唇やった。


 「ん、やめてや!」

 「好きだよ康二」

 「離して、!」


 ふっかさんに拘束された両手首を必死に振り回す。


 「そんなに俺が好きなら、奥さんと別れればええやん!結婚せんかったらええんやん!ふっかさんはわがままや!」

 「結婚は…しなきゃいけなかったんだ」

 「は!?」

 「親が勧めてくれた縁談だから。将来は会社継がなきゃいけないし、子どもがいないと跡継ぎがいないと…親を失望させちゃうから」

 「会社を、継ぐ…?」


 よく話を聞けば、どうやら深澤辰哉は大手企業社長の1人息子やったらしい。


 「それならなおさら、俺はじゃまやな」

 「だから、なんで?」

 「社長さんになるんやろ?浮気なんてしたら大変なことやで」

 「…俺はお前が好きなんだ」

 「ふっかさん、」


 俺も、ふっかんのこと好きなんやで。


 「康二のことが好きだから、傍にいてほしい」

 「せやから…むりやろって、」

 「…好きだけじゃだめなのか?」

 「だめにしたのは…自分やろ?」



 ふっかさんはなにも言えんくなったみたいに、少しの間、黙っていた。


 「初恋だったんだ、康二が」

 「は、?」

 「あのとき、ハンカチ渡しただろ」


 初めて、俺たちが出会ったとき。


 「うん」

 「あのハンカチ、俺のやつだったんだ。お前から落ちたとか大嘘で。康二に一目惚れして、それで…話す口実を作りたかっただけ」

 「…うそや」


 ずっと好きな人が、ずっと俺を好き?


 「ほんとだよ」


 苦すぎる現実は、背負いきれなくなる。


 「ふっかさん」

 「ん?」

 「ずっと大好きやったで」

 「うん」

 「愛してた」

 「うん」

 「だからもうお別れなんよ」

 「俺はいやだ」

 「幸せになりぃや、あんたは」


 酸っぱいことも甘いこともなにもかも、全部この人が教えてくれた。


 「どうしても離れなきゃいけないの?」

 「俺はこれ以上…名前が無い関係嫌やから」

 「俺はいやだよ」

 「奥さんのことも大切にしいや」

 「…俺は」


 ふっかさんがなにか言いかけたとき、ガチャっと鍵が開く音がして、慌てて俺たちは距離をとった。


 「ただいま辰哉!」


 かわいらしい女の人の声やった。

 この人が、奥さんか。


 「あれ、その人だれ?」


 怪しんだように俺の方に近づいてきて、すぐにパッと明るい表情になった。


 「あ、お友達か!ごめんなさい急に!」

 「え、茜、帰ってくるの今日になったの?」


 驚いた様子で話すふっかさん。


 「うーん、もともと今日だったの。でも最近辰哉、変だから。浮気でもしてんのかなーって。最悪じゃん?そんなの」


 さいあくじゃん、か。

 ごめんなさい、本当に。


 「だから嘘ついたの!試したくて」

 「…そう」

 「でも良かった!呼んでたのがお友達で!」

 

 なにも話せなくなった様子のふっかさんの代わりに俺が口を開いた。


 「はい、急にお邪魔してすみません。俺が深澤さんに相談したいことがあって…」

 「全然いいんですよ!なんなら私、買い物してきますし」

 「いいえ俺もう大丈夫なんで、帰りますね」

 「待って康二」


 いつのまにか俺の口からペラペラ標準語が出てくるようになってたんやなぁ。


 「あ、お見送りは大丈夫ですよ!奥さん帰ってきたんだから、仲良くしてくださいよ〜」

 「本当に気を使わせてごめんなさいね」

 「それじゃあ失礼します」


 これで、この人に会うのは最後や。ほんまに。


 「ふっかさん、さよなら」

 「こうじ、」


 それだけ言い残して、バタンと扉を閉めた。

 もう二度と、この扉の前でLINEすることも無い。


 「さよなら、やなぁ」




 涙は、当たり前みたいに流れてきた。

 やっぱり大好きやったみたいやな。


 落雷に打たれたみたいに感じたふっかさんとの出会い。あんなに衝撃的だったんやから、運命に違いないと、信じることしかできんかった。


 どこかで、そんな美しいもんやないと気づいたとしても。


 それでもよかった。だってそれほど、深澤辰哉が好きだったんやから。




 「あぁ、終わっちゃったなぁ」


 急に降り出した雨に涙が共に流れだす。


 「終わんのってあっという間っすよね」

 「え、」


 急に雨が自分に当たらなくなって、驚いて顔を上げると、そこには俺に傘をさしてくれている男性がおった。


 「春も夏も秋も冬もずっと一緒にいたんすもんね。この人と結婚できたらいいなぁとか思ったりもするし」

 「え、と」

 「でも急に1番遠い存在になる。もう二度と会ったり喋ったりすることはないんすね」

 「だれ、ですか?」

 「お兄さん、立ちなよ。泣いてないでさ」



 「せやから、」

 「俺は渡辺翔太。あいつに頼まれて来ただけ。近かったからね」

 「あいつ…」


 俺に傘をさしてるせいで、この人は随分濡れてしまってるようや。


 「ふっかさん、ですか?」

 「そうそうふっか。さっき電話が来て、俺の大切な人が今俺ん家を出てったんだって。濡れちゃうから傘をさしてやってくれって」

 「傘、を…」


 あんたが濡れてるやんか。


 「泣くなよ、頼むから」


 彼は、立ち上がらない俺の頭を優しく撫でた。


 「わたなべさん」

 「なに」

 「もう二度と会ったり喋ったりすることはあらへんって、さっき」

 「あぁ、さっき言ってたやつ?」

 「俺、それでもええ…それでもええから俺は、深澤辰哉に幸せでいてほしいんや」

 「あんたほんとに、あいつが好きなんだね」


 俺の頭を撫でていた手で、今度は俺の手を握り、俺を立ち上がらせようとした。


 「わぁ、!」


 勢いよく引かれ、立ち上がらされ、目線が渡辺さんと揃った。


 「俺なら恋が終わるなら夏がいいけど」

 「え、?」

 「だからあんた、ラッキーじゃん?」

 「なんで、夏ですか」

 「暑さで気が紛れるから、かな」

 「紛れる…」

 「ほんとに好きだったんだろ?そんなに好きになれるなんて、なかなかねえから。だから、自信持てよ」


 渡辺さんは、俺のことを必死に慰めようとしてくれとる。


 「浮気ですけどね」

 「まーじわらえねえわ」


 お互いに顔を見合わせ、くすっと笑った。


 「ほら、もう1人で立てるだろ」

 「ほんとに、ありがとうございます」


 もう深澤辰哉に寄りかかって生きていくのはやめや。今日で、いや、ここで終わり。


 「…じゃあ、夜ご飯でも食いにいくか」

 「え?」

 「いいじゃん、食おうよ」


 随分長い間、あの人に依存していたようや。

 どんどん沼にはまっていくみたいに。


 「お、俺でええの?」

 「うん、別に悪くはねえだろ」


 せやけど今日、あの人と最後の別れになると分かったあの瞬間に笑顔でいられた。

 それは、たぶん。


 「ほんなら、行きましょ!」


 それは、たぶんな。

 ふっかさんの記憶に残る最後の俺は、せめて美しく凛々しくいたかったから、やな。

 あの人が俺を失って、後悔するくらい、いい男になってやりたいって。


 「…康二って呼んでもいい?」

 「もちろん!」



 さよなら、深澤辰哉。

 さよなら、ふっかさんを愛してた俺。


 こんにちは、貴方のいない新しい世界。




Fin