今の世の中は自由でそして平等だ、なんてことを聞いたことがないだろうか?それは政治家が世の中が良くなる為には経済的にも人間的にも不平等で不自由であることが「悪」であると定義をして、平等で自由こそが人間に与えられた権利であり、そうでなければならない、というような刷り込みをした結果なのではないかと思う。


今の日本では、目の前に与えられたものをこなしていけば、贅沢はできなくても、ある程度の生活は保証され、何の疑いもなく、寝て起きれば朝になるという生活がある。これは国民の大多数を中流家庭として満足させる為に行ってきた政策の賜物である。それでも、以前であればこのような状況の中、教育やスポーツなど順位などで明確に差が生じるものがあり、より高みを目指すものが出てきて、この国の対外的に見た時のレベルというものが維持されてきたのだと思う。

しかしながら、最近では日本の教育では順位をつけることすら「悪」であるように言われることがある。これによって、以前では、かりそめの平等や自由の中にあっても自分の立ち位置を理解し、生きる道を探すことができたものが、それらを図るメジャーすら取り上げてしまう結果となった。その為に、自分の進むべき方向すらわからなくなり、現在の生き辛さなどにつながってきているのではないかと思う。

ハッキリ言って、人は生まれながらにして平等ではあり得ない。それぞれ見た目も違えば考え方も違う。そもそも生まれてくる時に男女の性別を選んで生まれて来れていない。家庭環境が良い悪い、そんな不平等もある。経済的に貧富の差という不平等もつきまとう。様々な不平等はその中にいるだけではわからない。自分のいる世界とそうでない世界を比べて初めて同じではないと認識して、区別することができる。そして、どちらが良いか悪いかを判断することで、その区別が格差という不平等意識になるのである。どちらが良いか悪いかなど、教えるのはその時周りにいる大人である。では、その良い悪いを一方的に押し付けることがいけないのだろうか?そうではないと思う。今この日本にいる子供たちの不幸は、子供たちが平等でなければいけない、と大人たちが決めつけ、生きる力を削いでいることではないかと思う。そのことによって、競争の機会を無くしてしまっていることが日本のレベルを国際的に比べてみて下げている原因なのではないかと思ったりする。私はそれらを研究し、政府やその他機関に意見するような学者ではない。なので間違っていると感じる方も出てくると思う。そこで誹謗中傷するような人が出てくることこそ、この社会の平等を目指した結果だと思う。意見の相違などあって当たり前なのである。


自由も平等と同じように自由とはならない。それはなぜか?社会生活をする時に、全く一人で生きていくということはまずあり得ない。中には外界と隔絶された世界に一人で自給自足の生活を一人で送っている人がいるやもしれないが、統計的に言えばそれは特異点でしかないのである。ではそれ以外の人はどうか?他人との関わりの中で生きているのだ。他人と関わるということは、その人や人たちとの間にやって良いことと悪いことの取り決めをして、それを守って生活することになるのである。守れなければ、そこにいられなくなり、どこかに移動せざるを得なくなるだろう。最悪の場合、存在すら許されなくなるかもしれない。自由とは、その取り決め、つまりルールを守るという責任の上に成り立っているもので、何でも好き勝手して良いようなものではないのである。ルールは他者との関わりで生まれるもので、必ずしも全ての人に共通するものではない。場所や人種、その他様々な状況によって全く違うものになってしまう。同じコミュニティの中にいても、年代が違えばそのルールは必ずしも同じとはならないだろう。


さてなぜこんなことを言い出したかというと、安倍元首相銃撃事件に続き、岸田首相襲撃未遂事件がつい先日あったからである。これらの事件を起こしてしまった人たちは、きっと私たちの隣に住んでいる人たちとあまり変わらない人だと思う。ただ、平等であるという幻想に翻弄され、自分や自分の近くにいる人たちが不当に虐げられているとか、不幸になってしまっているなどと感じてしまったことがことの発端なのではないだろうか。安倍元総理銃撃事件では犯人の家庭環境と旧統一教会のとの関係がクローズアップされた。もちろん、これらは事件を起こす原動力になったかもしれない。でも、あくまできっかけでしかなく、大元にあるものは、不平等に対する鬱憤のはけ口として事件があったのではないだろうか。


では、どうすればいいのか?私なりに考えてみた。今私たちがやらなければならないことは、「世界は不平等で不自由なのだ」ということを理解することではないだろうか?そのことによって、自分を見つめ直し、自分の生きている世界のルールの中で何ができるのかを考え、ルールが間違っていたり変えた方がいいのであれば変えていく、ということではないだろうか?そしてこのことこそ、真の民主主義という社会体制の実現なのではないかと思うのである。それと同時に、不平等であることがわかれば、自分が満足していなければ、満足できるように向かうべき方向を探すということができてくるはずなのだ。それが、自らを経済的に富させ、日本という国を考えたとすれば、国際的な競争力をつけることになるのではないだろうか?


もちろん、いうは易し、行うは難し、である。一朝一夕で変わるものではないだろう。しかしこのことは日本だけでなく、世界中の人々が考えなければならないことなのではないかと思う。そういう考えが結果として未来志向になり、競争の中にあっても他の人などとの協調を生んでいくのだと信じるものである。


前述したように、私は学者ではない。なので間違っていると思われるような箇所も多々あるだろう。しかし、そう感じた人は、これを違った意見の一つだと理解する努力をしてほしい。そうすることからしか、先に進めないのが、ここからの未来だと私は信じるのだ。


幻想にとらわれず、唯一「自由」にできる想像の中で思うように考えてもらえれば嬉しい。