人は、何をするために、生きているのか。
生物である以上、死というものを回避することはできない。
だからと言って、自らの手で、自らに死をもたらしてはならないと思う。
もちろん、他人をあやめてしまうということはもってのほかだろう。
今回、国会で議論された人間の死は脳死によって判別されるというものは、いろいろと考えさせられるものだ。
脳死は、脳が活動を停止(休止)している状態であると言い換えることができる。実際に脳が活動する可能性が0であるかどうかは、誰もわからない。
しかし、一方の当事者である、移植される側にとってみれば、脳死という、実際に細胞が死にゆく過程にない状態においての死の判定は、移植できる可能性を広げるという意味で重要である。
これからの未来において、いつ脳が活動を再開するかわからない人間の生産性と、移植することによって、これから、健常者と同じような生産性を保つであろう、人間の生産性をくらべて、今回の結論に至ったのではないだろうか。
生産性と言ってしまえば、かなり下世話に聞こえるかもしれないが、可能性という言葉にすると、未来に向かっての建設的な提案であるというように聞こえるだろう。
すべての者には最低2つの選択肢がある。それは、表裏一体という言葉で、表わされるように、相反する事象がお互いに存在することを意味する。時には、2つ以上の事象が生じる場合があるだろう。
そんなとき人は、人が持っている想像力を最大限利用し、その事象の中で、今後、どの事象が人にとって、もっと細かくいってしまえば、自分にとって、得であるか、ということで、決断をする。
今回の脳死に関する議論は、脳死した人間よりも、移植を待っている人間の未来の方が、より高い生産性を生む可能性が高い、という判断なのだろう。
さて、本当にそれでいいのだろうか?
人は何をするために生きているのか?そんなことを考えている人は、何もやらない人だちだろう。
一日を一生懸命生きている人は、毎日が充実に感じられ、不満があったとしても、自然と次の日や、近い将来のことを考えて、毎日過ごしているのではないだろうか。
そう考えると、脳死しているというのは、現代の医学の上での判定であって、もしかしたら、脳死と言われた人が毎日を一生懸命に生き、目が覚める日のために、力を蓄えているだけなのかもしれない。
人の命については、いくら議論してもし足りないものだと思う。
それは、それだけ、命というものが貴いもので、とても大切なものだからだ。
もし、私に、人として、ひとつの結論を出させていただけるのであれば、生物としての活動が完全に停止するまでは、人として接するべきである、と言いたい。しかし、その人が臓器提供などの志を持っていて、脳死した場合は、提供してほしいというようなことを言っていれば、その通りにするべきなのではないかと思う。
あなたは、どう思いますか?