あれから5年。
何年経とうが忘れちゃいけません。
マスコミではこぞって特集してますが特別な日にだけ特集するのはいかがなものかと・・思いマス・・・・・・・
5年前のあの日は・・・・・・・・。
朝から娘のアッシーでした。しかも初めて学校まで!
娘はまだ高校1年生でした。
ちょくちょく自転車で学校まで行っていたのでそのルートを教えてもらいながら・・「えっこんな坂上るの?」「こんな古い街並みがあったんだ~」・・なんて話ながら。
学校そばで下してそして私は帰宅。
午後、意外と早く・・何時ごろかな?お昼すぎくらいに娘が帰宅してすぐに部屋で寝てしまいました。
私は午後3時に隣の町の駅前のビルへ膝の治療に予定でした。
娘は寝ていたので黙って出ました。
車で10分ほど。
そばのスーパーの屋上に車を停め、どんよりした今日のような空模様でしたがそれでも高台なので結構眺めがよくてしばらく景色を眺めて、目的地へ向かいました。
目的地のビルの入り口から70代くらいの男性が出てきて、私はエレベーターに乗りこみました。
するとドアがカタカタ言いだしました。
「ん?なに、ボロいエレベーターだな~・・大丈夫??」
まさかそんな地震だとは思わないので、こうのんきに思っているうち目的の4階へ。
ドアが開き、廊下に出て、「こっちかな?」なんてまだ気が付いていなかった私。
そのうち周りでカチカチ音がしていることに気が付き、前から歩いてきた男性が携帯で(まだそのころは電話が使えたようです)大きな声でわめいていました。
そしてやっと揺れていることがわかり・・・・・・「ヤバい!!地震?!」
乗ってきたエレベーターはもう使えないようで、仕方なく階段を降りました。膝が痛かったはずなのにまったく痛みを覚えませんでした。
外に出ると近所のスーパーから人が出てきて、駅前のパチンコ店のスタッフの若いお姉さんが座りこんで泣いていました。
しばらくそこでじっと立ち尽くしていました。その間にも1度ちょっと足がよろめくほどの余震がありました。
そのうちやっと「あ!!娘!!」と家に娘がいることを思い出し(アホですね~)電話するも・・つながらず。
急いでスーパーの屋上へ戻り車に乗りこみ帰宅しようにも同じ車が殺到し、渋滞。その間にも大きな余震が来てスロープが波打っていました。
やっと駐車場から出るも信号は停電。
電車も線路上で立ち止まったまま。踏切は閉まったまま。
幸い、家は無傷。
玄関開けて娘の名前を呼びました。するとリビングから「ここ!!」と返事があり、見ると・・食卓テーブルの下にもぐってスマホのワンセグでテレビを見ていました。
そのうち千葉の船橋の方で爆発があったとニュースが。リビングからもその時の煙が見えたのでした。
夜になり寒くなって旦那の部屋から石油ストーブを持って降りてきました。
夕飯はあの日はあんかけかた焼きそばでした。
娘と色々話ながら食べました。
旦那は普段から携帯もよほどじゃない限り出ない人なので何かあれば連絡が来るだろうと思っていました。
すると・・・・・・・。
夜10時頃だったでしょうか。帰ってきました!!どうせ泊まってくるだろうと思っていたのでうれしかったと同時にホッとしました。
なんと会社から工場内用の自転車に乗って帰ってきたとか。
とりあえずホッとした一夜でした。
この日以降いつも心に不安も付きまとっています。
でもその不安を少し和らげてくれたのが・・・・・・レオンの登場でした。
本当に彼には感謝しています。
あの日のあと計画停電が始まって帰省した時は駅構内の明るさに東日本西日本の違いをまざまざと感じました。
この日のことはいつまでも忘れないでしょう。