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思えば、子供の頃から映画漬けの日々だった。「ニュー・シネマ・パラダイス」を見たときに、自分と同様の幼少期を過ごした人がいる(ストーリー自体創作であったとしても、ここに同様の人物がいます)ことに驚きもし、共感もした。
社会人になってから、企業PR映画やビデオを30本ほどディレクティングしたのも、今になって思えば、原体験としての映画があったからなのか。

子供の頃親父から聞かされた話で、祖父はピアニストだったらしい。戦前の無声映画の伴奏を弾いていたそうで、祖母はチケット売りだったそうな。
トーキーができたため失業した祖父は、バンドマンを集めてジャズをやり始めたらしい。
キングレコード(戦前)から何枚かリリースした後、芸者と一緒に満蒙開拓団への慰問などで大陸にも渡ったという。

上海で逗留したのだ。
(上海バンスキングを見た時、額線とした。途中まで祖父の人生と瓜二つだったから)
帰国後敵性楽曲演奏の罪で、筑豊の炭鉱で石炭堀を、連行されてきた朝鮮人と一緒に日夜掘らされたそうだ。ある日監視の憲兵が坑道に来ないので、地表に出てみると、終戦だったという。
めったに地上に出してもらえなかったらしい。

結核にかかっていた祖父は大阪の信太山サナトリウムで他界。

結局生前は窓に向かって手を振るだけで、祖父とは会えなかった。

祖母は、なくなる5年ほど前まで、映画館で切符の販売をしていた。
子供の頃から私は地方の映画館のチケット売り場や、モギリ、二階席、看板職人の職場、映写室が遊び場だった。

高校生の頃フォークに熱中したのも、就職後映像関係の仕事をしたくて、映画企画やシナリオ作成に傾倒したのも、比較的余裕ができた時、1年間におよそ300本ほどの新旧ビデオを見続けたのも、

ある意味遺伝かもしれないし、あるいは祖父の業が蘇ってきたのかもしれない。

映画を観ることは苦痛ではない。しかし1800円だして、それなりの値打ちを感じる映画はかなり少ない。レンタルDVDであっても、350円の値打ちを感じる映画は少ない。

今私には、妻以外に一緒に映画を観る相手がいない。

本来であれば、観てからのコーヒーと、映画評をしたいのだが、私が話し始めると面倒だという。
時代考証から、大道具、演出などにも話が広がるからだそうだ。

だから、ここで遺言と言うかあしあとの代わりに、私の映画評を書き残しておきたい。
削除されずに残っていれば、いつの日か会話の少ない息子たちに、父親らしくなかった父親の視点を理解してもらえるかもしれないので。

映画は一体何を伝えられるのか。

同様の事を、PR映画を作成するときによく考えたものだ。

所詮PRえいがということなかれ。それなりに難しいのですよ。
過去に手がけたのは、

M電機系の情報通信会社 3本
関西の繊維・ファッション・肌着会社  6本
別の繊維メーカー 1本
ダイエー系 ファッション会社 1本
スーパー 2本
住宅資材メーカー 1本
外食 チキン系・ハンバーガー系 合計3本
消費者金融 3本
ゼネコン記録映画  3本
不動産関連会社 1本
銀行 1本
これ以外に部下が担当したのも10数本ある。

その他もろもろは、タイトルを見れば思い出すが、ほとんど忘れてしまった。
劇中CMも10本近く本は書いた。

だから、このブログでは、作り手と、単純に映画を見て喜ぶ素人という2面からの捉え方で書いてみたい。
ちなみに、普通映画を観るときに、この監督は映画をとった監督だとか、演出はだれだとか、うんちくを語るのは、あまり好きではない。もちろん、そんな期待で映画を観ることはたまにはあるけれど、

だから映画大百科などを紐解きながら、にわか映画評論家としてコメントするのではなく、むしろただの観客としての意見を書き込みたい。

とはいえ、少しはフィルム作りに携わった経験も踏まえてカキコしたい。

自分の中で一番の駄作だったのは、いまではもう原盤も残っていない
記録映画 M越百貨店「秋の大運動会」 

その昔映画好きの社長がいた頃で。撮影日の3日前の夕方に電話が入り、徹夜でラフを書いて、翌日は休日でスタッフを急遽集合させ、フィルムは当日の早朝、長瀬産業の守衛をたたき起こして、奪うようにして会場へ走ったことが思い出される。

「世紀の祭典」みたいな、聖火リレーや、選手団の行進、各種競技なども取り込んだ、いわゆる提灯映画だったのだ。
一体誰に見せるのかわからないような映画になったが、それなりの評価だったという。
だれがM越の劇場でこの映画を見たのやら。