乙巳(イッシ)の変です。

 

昔は、ただ「大化の改新」の一環という扱いでした。

今、中大兄皇子らが蘇我入鹿を殺害した645年の事件は「乙巳の変」と呼び、

翌年の改新の詔から始まる一連の政治改革を「大化の改新」と呼んでいます。

 

が、やっぱり何となく一緒くたですよね💦

 

乙巳の変のイメージって、たぶんコレだと思うのですが、どうですか?

もちろん、普通は教科書には載っていないと思うんです。

 

わたしはウィキで見ましたwww

「乙巳の変」「大化の改新」

 

けど、唯一掲載している教科書を見つけました。

それが下の画像。

 

 

自由社の中学社会(R2検定)です。

けっこう大きく掲載されています。

4人の登場人物に番号振って、キャプションで説明する丁寧さ。

 

 

が、

これ、あんまり良くないと思っているのですよね。

 

もちろん、この絵自体は悪くないです。

 

江戸時代に制作された『多武峰縁起絵巻』という立派な絵巻ですが、

多武峰妙楽寺というお寺(明治の神仏分離令によって、談山神社という神社になった)所蔵のものです。

 

絵巻の目的は、多武峰の開祖・藤原鎌足を讃え、お寺の功徳を広めること。

広告・宣伝ですね。

鎌足の事績をだとって、お寺が建立された経緯と発展を辿る絵巻となっています。

それを読んだ(観た)人々が、

 

中臣鎌足ってすごい人!

彼を祀っているのね!

すごい! 素晴らしい!

是非とも多武峰に行ってみたい!

 

そんな気分になるよう作られています。

当時の寺社参詣のあり方を探るためには、とても大事な史料です。

 

そんな絵巻において、乙巳の変は最初のクライマックスですよね。

派手に描いて、鎌足の業績を強調したいわけです。

 

ただ…、

江戸時代の絵師が飛鳥時代を描くのは、無理があったのでしょう…

 

まず寝殿造が違いますよね。

これだと座り姿で儀式を行う平安時代以降になってしまいます。

立ち姿で儀式を行う(立礼)タイプの宮殿じゃないとダメです。

 

十二単や束帯も平安時代以降のもので、飛鳥時代にはまだありません。

せめて『高松塚古墳』の壁画に描かれているような女性の出で立ちを、

…と思いましたが、

あれが発見されたのは1972年だった…。

 

というわけで時代考証的にバツブルー

仕方ないですけどね。。。

 

でも、それ以上に違和感があるのは、入鹿の首がぽーんと飛んでいること。

 

実際には、首は、討ち取ってないんです!

 

『日本書紀』を読むと、

まず、中大兄皇子が頭部から肩にかけて斜めに斬っています。

 

「剣を以て入鹿が頭・肩を傷割く(剣で入鹿の頭と肩を斬り裂く)」

皇極4年(乙巳)6月戊辰(12日)条

 

次に、ビビッて初動で動けなかった子麻呂が、入鹿の足を斬っています。

逃げられないように、だよね。

 

その後も、首を取った感じしないんです。

たとえば、中大兄は入鹿の死骸を蝦夷に送りつけていますが、

「屍」なんですよ。

「首」ではない。

 

うーん。

いつごろから、敵の首を討ち取る習慣が誕生したのかな…。

武士の登場かな?

 

 

とにかく、首は討ち取ってないです。

 

絵巻は、鎌足を持ち上げることが主題ですし、

少しでも絵巻に興味を持ってもらい、ひいては多武峰への信仰者(寄付)を増やしたいのですから、そりゃ盛りますよ。

首が飛んでりゃ、劇的で、人目を惹きますからね。

 

そんなわけで盛られた絵なので、教科書には載せない方がいいと思います。

参詣者を増やすのが目的の江戸時代とは違います。

教育には不向きかな、と。

 

ちなみに、自由社は「新しい歴史教科書を作る会」の系列です。

 

中学の教科書は今年が検定。

もうそろそろ最新の検定教科書が出るころと思いますが、どうなってるかな~♫