今回は、「徳政碑文」。

覚えているでしょうか。

 

正長の土一揆をで、借金の帳消しを高らかに宣言するもの。

徳政一揆って言ってもいいですよ。

 

土一揆というのは土民(一般庶民)の起こした一揆という意味。

徳政一揆というのは、徳政を求めた一揆という意味。

 

土一揆はたいがい徳政を求めた一揆なので、イコールでオッケーです。

 

あるとき、中学の教科書をふわーーっと眺めていたら、目に入ったのが↓の写真。

(日本文教出版『中学社会 歴史的分野』、R2検定)

 

 

あれ?

なんか、ちょっと違和感ある…。

 

そう思いました。

 

んーー、じゃあ、他の教科書は?

さしあたり開いたのは、清水書院『高等学校日本史探究』(R4検定)

 

青空と、陽の光に当たった石仏がキレイな写真です。

 

違和感の正体、わかりましたか?

前の写真では、石仏が小屋のなかに収まっているのです。

2枚目の写真には、小屋がなく、石仏が露出してる。

 

私のイメージは、後者。

私は、コレで育ちました。

屋根とか、そんなんあるイメージではないです。

 

というわけで、ざっと教科書を確認してみました。

屋根付きを掲載しているのは、上記の日本文教出版の教科書だけでした。

 

ほかは

 

①屋根がないもの

②屋根があるかどうか確認できない程度にまで拡大したもの

③碑文のみ(山川です)

 

の3種類でした。

①が多いです。

 

現実の徳政碑文(疱瘡地蔵)はどうなっているのか?

これはGoogleマップの出番ですね。

「柳生 徳政碑文」で検索!!

 

そこに掲載されている写真を見ると、確実に屋根がかかっています。

間違いないです。

 

いつ、作られたのかな?

上記Googleマップの写真を見ると、

奈良県教育委員会の案内板があって、その設置が昭和58年だから、

ひょっとして、そのときに屋根とか柵とか設置されたのかな~。

 

昭和58年だとしたら、思いのほか古いよね。

さっき、屋根ナシで育ったと言ったけど、

もう既にそのころには、屋根・柵があった可能性が高い。

 

そして、

徳政碑文は、疱瘡地蔵という石仏の、向かって右下の部分に彫られているのですが、

この、肝心の部分が、

柵によって見えませんね…。

 

いや、リアルに行けば見えるけど、冊の上からのぞく感じになりそうです。

 

しかも、この柵。

手前にあるだけじゃなくって、中央で石仏側に直角に曲がって、

ゴール地点では、石と密着してる。

 

完全ガードな印象。

 

碑文を写真におさめようとすると、難しそう。

 

ましてや、2枚目の写真のように、石仏全体のなかで、

 

「ここに碑文がありますよ」

「で、その碑文を拡大したのはこれですよ」

 

って感じの編集に使うには、やや難がある。

 

日本文教出版では、やってるけど、

屋根とか柵とかで、ごちゃごちゃししてる。

 

屋根なしの写真の方が、ヴィジュアル的にシンプルで、わかりやすい。

 

でも、屋根なしに戻してほしいとか、そういうことではないです。

歴史的遺産も含め、変化するのは当たり前のことだし、

そもそも保護のためだろうし。

 

そういうことじゃなくって、

屋根なしの写真データは永久保存版だなってこと。

 

 

 

日本文教出版は、なぜ屋根アリの写真を載せたのかな。

 

単純に屋根ナシの画像データを持っていなかったのか、

それとも、

データは持っているけど~、見栄えが悪くなっちゃうけど~、

現在のありのままの姿を掲載したいという思いなのか。

 

後者だったら、リスペクトハート

 

 

ちなみに、

育鵬社の中学社会の教科書『新しい日本の歴史』には、

「正長の土一揆」の文字がありません。

もちろん、徳政碑文への言及も、写真もありません。

 

「正長の土一揆」になんの言及もないのは、育鵬社だけです。

自由社だって、徳政碑文の写真を大きく掲載しています。

 

一揆の説明はしていますが、一向一揆がメインです。

それでも、記述量は少ないような気がします。

 

一揆を矮小化してる印象です。