ゲームのプレイブログを書いている人は割と多いです。一番多いのはパズドラでしょうか。書き手の書く理由はそれぞれ異なるかと思います。今回は、読み手側の立場に立った読む理由というのを、考えてみたいと思います。
まず初心者の方であれば、どんなゲームなのかという雰囲気と入り口の情報収集です。最近のゲームには説明書も無いので、序盤の攻略の参考にするユーザーも多いのではないでしょうか。
中級者~上級者になると、情報だけでなく、書いているユーザーがどんなプレイをしているのかを参考にされているのかもしれません。
ネットゲームというのは、友達とする以外は他のユーザーの動向やプレイ内容というのは見ることができません。ブログなどで、他人がどのようにゲームをしているのかを知るという理由が、読み手側の最大なのメリットだと思います。
僕自身も、他のブロガーの方の記事を読むのはその理由からです。それを見ると参考にもなりますし、自分では気づかなかった遊び方の幅が広がります。そして、どんな人がどんな風にプレイしているのかをのぞき見できることは、モチベーションを高めてもくれるからです。
ただ、内容によってマイナス感情を持ってしまう時もゼロではありません。魔王をガチャで引いたというの見ると、僕は持ってないから羨ましいなと思ってしまいます。羨ましいという羨望感情を、どう自己処理するかが、現代人の課題であるとも、以前ブログでも書きました(2013年10月26日更新ブログ)。
個人差があるでしょうが、ゲームでの羨望感情というのは往々にしてリアルの充実感に関係しているのは、うがち過ぎな結論では無いと思います。(わざとオブラートではなく、包装紙に包んだ言い方をあえてしておきますw)
ちなみに、先日アメーバニュースでも、こんな記事がありました。
http://news.ameba.jp/20140809-305/
※ちなみに僕は2番を選びました。
人間生きていれば、どんな人でも誰かしらのことを羨ましいと思うわけで、それをうまく消化できず、敵意や悪意に転換すれば、社会からは無頼漢や無法者、最悪、犯罪者のレッテルを貼られてしまうわけですね。
たかがゲームだと思う人もいますが、それがその人にとっては大事なものかどうかは、その本人にしかわからないことなわけです。それを他人が否定するのも、これまたおかしな話です。僕自身、ゲームやブログでリアルのアイデンティティを確立しているわけではないので、仮に明日からDQSMLもブログもなくなっても、そんなに困ることはないと思っています。
とまあ僕自身は、人の意見は人の意見、自分の意見は自分の意見と切り分けて考えています。他人に自分の考えを植え付けようというのはする気もありませんし、そんなことは出来ないとも思っています。
なので他人の考えを聞くことはしますが、それを否定も肯定もする気はありません。互いの考えに正も否もないからです。
しかし、人によっては「それは違う」と思われることとが、否定されたと考える方も多いようです。考えの否定を、人格の否定と曲解する人も多いです。そう言う人は決まって、自分の意見を他人に押しつけようとします。
たとえば、「自殺は悪い事だ」という考えがあって、それに対して人それぞれ否定と肯定があると思いますが、それぞれの考えがあるだけで、答えなんてないわけです。それをどちからに定義しなければならないという議論でなければ、結局「それぞれの考え方があるよね」で終わらせるしかないと思うのです。
そこにリアルな人間関係や生産性があれば、意味はあるかもしれません。しかし、顔も知らない素性も知らないネット社会の中で、それをすることは、激しくナンセンスだと思うわけです。日本人という括りなだけで、生活環境や人生観など異なる部分が多々あり、尚且つプライベートな情報はお互い知らないわけですから。
正否で判断することもまた、成熟社会の問題点でもあります。特にネット社会ではそのような荒唐無稽な戦いが日々繰り広げられているようにも思えます。これもまた原因は一つの、羨望感情の曲がった消化の仕方だと思うわけです。
正否で判断する社会というのは合理社会の典型です。日本が極端な合理社会になっている今をネット社会は象徴しています。
僕がブログでなぜ、このような堅い話をしているのかは、自分なりの理由があります。それは、こういった評論に近い文章を書くことで自己啓発をしているのと、もう一つは読者に取捨選択して頂いているわけです。あえて堅い話をすることで、よりコアな読者層を求めているというのが理由であります。簡単に言えば、書いていることがあまり理解できない、こんな長くて堅いブログは読む気がしないという人を、避けるためです。
こういったブログ内容を書くと、偉そうなことを書いてるなとか、上から目線だとか思う人もいるようです。そんな気はなくても、文章は他人にどう伝わるかは書き手の範疇を超えてしまうので、至極当然です(2013年7月20日更新ブログ)。それを否定する気もないわけで、僕は僕自身のあくまで個人的な考えを書いています。
なので、もしそのような感想を抱かれた方は、次から読まないようにして頂くのが良いと思います。と言うか、それ以外に選択肢はないとも思うわけです。何故なら、それに正しいも悪いもないので、否定しようとしても否定すること自体不可能なんですから。
そう言えば、先日同窓会で現在教頭先生の恩師の人とこんな話をしました。最近の親の意見は批判ではなく非難だと。言い方を変えると、いちゃもんです。批判と非難の違いは、僕も以前ブログで書きましたが理性的か感情的かの違いです。同じ先進国でも欧米は批判の文化があるが、日本はそれにいたってはまだ後進国だという話しをされました。同感だなと思うわけです。
ちなみに、先生から「これからの教育はどうなると思う?」と聞かれました。僕の答えは、「それは時代が答えを出し、僕らはそれに従うだけなんじゃないですかね」とやや受け身的な意見をしておきました。現役の教育者の先生に、僕が高度な意見を述べれるはずもなく、僕自身、教育は社会によって抽出される一つの象徴だとも思っているからです。
これまた、簡単に言うと、「なるようになる」という意味です。Take iti Easy。ケセラセラ。
※久々の長文でした。400字詰め原稿用紙約7枚分。かなり以前に下書きしていたのを、推敲したりでようやくアップできましたw
《招待コード》
新規プレイの方は招待コード登録でジェムも貰えます。よろしくどうぞ。
VYNyphQJ
まず初心者の方であれば、どんなゲームなのかという雰囲気と入り口の情報収集です。最近のゲームには説明書も無いので、序盤の攻略の参考にするユーザーも多いのではないでしょうか。
中級者~上級者になると、情報だけでなく、書いているユーザーがどんなプレイをしているのかを参考にされているのかもしれません。
ネットゲームというのは、友達とする以外は他のユーザーの動向やプレイ内容というのは見ることができません。ブログなどで、他人がどのようにゲームをしているのかを知るという理由が、読み手側の最大なのメリットだと思います。
僕自身も、他のブロガーの方の記事を読むのはその理由からです。それを見ると参考にもなりますし、自分では気づかなかった遊び方の幅が広がります。そして、どんな人がどんな風にプレイしているのかをのぞき見できることは、モチベーションを高めてもくれるからです。
ただ、内容によってマイナス感情を持ってしまう時もゼロではありません。魔王をガチャで引いたというの見ると、僕は持ってないから羨ましいなと思ってしまいます。羨ましいという羨望感情を、どう自己処理するかが、現代人の課題であるとも、以前ブログでも書きました(2013年10月26日更新ブログ)。
個人差があるでしょうが、ゲームでの羨望感情というのは往々にしてリアルの充実感に関係しているのは、うがち過ぎな結論では無いと思います。(わざとオブラートではなく、包装紙に包んだ言い方をあえてしておきますw)
ちなみに、先日アメーバニュースでも、こんな記事がありました。
http://news.ameba.jp/20140809-305/
※ちなみに僕は2番を選びました。
人間生きていれば、どんな人でも誰かしらのことを羨ましいと思うわけで、それをうまく消化できず、敵意や悪意に転換すれば、社会からは無頼漢や無法者、最悪、犯罪者のレッテルを貼られてしまうわけですね。
たかがゲームだと思う人もいますが、それがその人にとっては大事なものかどうかは、その本人にしかわからないことなわけです。それを他人が否定するのも、これまたおかしな話です。僕自身、ゲームやブログでリアルのアイデンティティを確立しているわけではないので、仮に明日からDQSMLもブログもなくなっても、そんなに困ることはないと思っています。
とまあ僕自身は、人の意見は人の意見、自分の意見は自分の意見と切り分けて考えています。他人に自分の考えを植え付けようというのはする気もありませんし、そんなことは出来ないとも思っています。
なので他人の考えを聞くことはしますが、それを否定も肯定もする気はありません。互いの考えに正も否もないからです。
しかし、人によっては「それは違う」と思われることとが、否定されたと考える方も多いようです。考えの否定を、人格の否定と曲解する人も多いです。そう言う人は決まって、自分の意見を他人に押しつけようとします。
たとえば、「自殺は悪い事だ」という考えがあって、それに対して人それぞれ否定と肯定があると思いますが、それぞれの考えがあるだけで、答えなんてないわけです。それをどちからに定義しなければならないという議論でなければ、結局「それぞれの考え方があるよね」で終わらせるしかないと思うのです。
そこにリアルな人間関係や生産性があれば、意味はあるかもしれません。しかし、顔も知らない素性も知らないネット社会の中で、それをすることは、激しくナンセンスだと思うわけです。日本人という括りなだけで、生活環境や人生観など異なる部分が多々あり、尚且つプライベートな情報はお互い知らないわけですから。
正否で判断することもまた、成熟社会の問題点でもあります。特にネット社会ではそのような荒唐無稽な戦いが日々繰り広げられているようにも思えます。これもまた原因は一つの、羨望感情の曲がった消化の仕方だと思うわけです。
正否で判断する社会というのは合理社会の典型です。日本が極端な合理社会になっている今をネット社会は象徴しています。
僕がブログでなぜ、このような堅い話をしているのかは、自分なりの理由があります。それは、こういった評論に近い文章を書くことで自己啓発をしているのと、もう一つは読者に取捨選択して頂いているわけです。あえて堅い話をすることで、よりコアな読者層を求めているというのが理由であります。簡単に言えば、書いていることがあまり理解できない、こんな長くて堅いブログは読む気がしないという人を、避けるためです。
こういったブログ内容を書くと、偉そうなことを書いてるなとか、上から目線だとか思う人もいるようです。そんな気はなくても、文章は他人にどう伝わるかは書き手の範疇を超えてしまうので、至極当然です(2013年7月20日更新ブログ)。それを否定する気もないわけで、僕は僕自身のあくまで個人的な考えを書いています。
なので、もしそのような感想を抱かれた方は、次から読まないようにして頂くのが良いと思います。と言うか、それ以外に選択肢はないとも思うわけです。何故なら、それに正しいも悪いもないので、否定しようとしても否定すること自体不可能なんですから。
そう言えば、先日同窓会で現在教頭先生の恩師の人とこんな話をしました。最近の親の意見は批判ではなく非難だと。言い方を変えると、いちゃもんです。批判と非難の違いは、僕も以前ブログで書きましたが理性的か感情的かの違いです。同じ先進国でも欧米は批判の文化があるが、日本はそれにいたってはまだ後進国だという話しをされました。同感だなと思うわけです。
ちなみに、先生から「これからの教育はどうなると思う?」と聞かれました。僕の答えは、「それは時代が答えを出し、僕らはそれに従うだけなんじゃないですかね」とやや受け身的な意見をしておきました。現役の教育者の先生に、僕が高度な意見を述べれるはずもなく、僕自身、教育は社会によって抽出される一つの象徴だとも思っているからです。
これまた、簡単に言うと、「なるようになる」という意味です。Take iti Easy。ケセラセラ。
※久々の長文でした。400字詰め原稿用紙約7枚分。かなり以前に下書きしていたのを、推敲したりでようやくアップできましたw
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