週末は子供といることが多いのですが、公園に行くと昔懐かしい遊具に出会います。ブランコや滑り台、アスレチックジムなど、僕の子供の頃と変わらない定番の遊具が今も置かれているわけです。

一世代を経ても進化していない遊具というのは、不思議でもあり素晴らしいことでもあるなと関心してしまいます。子供に、「パパも小さいときにこれで遊んだんだよ」て言いながら、遊び方を教えれるわけですから。

世代を超えて共有できる娯楽というのは、最近のゲームとは全く似て非なるものだと思います。しかし、中にはファミコン時代からのゲームが今もコンセプトを変えずに続いているものもあります。その一つが、ドラゴンクエストかもしれません。そんな人の歴史を考えてみると、ゲームの歴史もまた感ぜずにはいられないわけです。

ゲームに限らず、アニメなどでもそうですが、80年代~90年代のバブル期に熟成された商品というのは、一つの完成したスタイルというのを確立しているように思えます。バブルという娯楽の全盛期がまた、娯楽の質を高めたからでしょう。その商品コンセプトのクオリティの高さと人々の記憶が結びついて、今なお色褪せない商品として残っているわけです。

今の合理的かつ機能的な日本の社会システムは、新しい文化や芸術を生み出しにくい環境にあるとも言えます。寂しい限りですが、これまた一つの時代なわけですね。

そして、それを共有できなかった世代というのもまた、考え方や思想が異なるわけで、国家の礎は文化であると言われますが、文化に対して余裕のない個人こそ、国家基盤を脆弱にするとも思います。

以前、大阪府知事時代に橋下さんが、脆弱な文化は存在する価値がないという主旨の発言で、文楽協会などの援助を打ち切る政策を出していましたが、これは個人的には否定的でした。歴史を見ても、文化は国家や為政者が推進すべき重要課題で、国民が自発的に生み出すものではないからです。なぜならば、娯楽や文化のない人生など、それこそ無機質で、ロボットと変わりません。文化の理念を持たずした国家は、金だけのつながりのベンチャー企業みたいなものだと思うのです。

よくゲームの課金に対して論争が起きますが、これまた文化に対する価値観の違いでもあります。たとえばゲームに課金することに僕は良いも悪いも無いと思いますが、国民全員が文化娯楽に対してお金をかけない国家を想像したら、それはゾッとしますね。

あるのは、文化娯楽に対する人の価値観のみです。そして、それは娯楽の多様化した今日では様々です。橋下さんですら、文楽に対して金をかけるのは馬鹿だと発言していたわけで、よくゲームに課金する奴は馬鹿だという発言と根本的には同じだったわけです。そこに、当時の橋下さんの政治家としての資質は正直かなり低いなと、個人的には思いました。

とまあ、日本が生んだゲームという文化を楽しみながら、これからの文化の方向性についても考えてしまいました。

現在の所は、キングレオ☆4MAXが完成しましたので、ドン・モグーラを育成中です。