遠州入門―浜松市 大久保忠世 | 爺さんの徒然日記

遠州入門―浜松市 大久保忠世

◆大久保忠世(1532年~1594年)は今の愛知県岡崎市に生まれた 

 

忠世は徳川家康の父広忠の代から仕える徳川十六神将の一人である 

三方ヶ原の戦いの時機転を利かせて家康を救った話が二つ残っている 

 

 

一つ目は火ともし山(今の浜松市中央区中沢町の辺り)の話 

家康が浜松城に戻ったのを見届けた忠世は近くの山に登った 

家来に「散り散りになって燃やせるものは何でも燃やして火を灯せ」と指示した 

そして鉄砲を持つものには景気よく空撃ちを繰り返すように付け加えた 

この時忠世に従った家来は数少なく 鉄砲も二十丁足らずで

到底信玄軍を追い払うことはできないと判断したからで 

山でいくつもの火を灯し城を守る家康の軍勢が数多くいるように

見せかけたかったのである 

いつの間にか騒ぎを聞きつけた村人も加勢し

山のあちこちに火が灯されときの声が上がった 

後日この山は「火ともし山」と名付けられた

 

 

二つ目は犀ケ崖の話 城に入った忠世はまだ戦う力が残っている家来を集め

城まであと少しに迫る信玄軍に夜襲を掛けた 

犀ケ崖に布の橋を架けた後 背後から鉄砲を撃ちかけたとも伝わっている 

信玄軍は大混乱に陥り崖下に落ちて行った

「さてさて 勝っても恐ろしき敵かな」と感心されたそうである 

 

犬居城(今の天竜区春野町)を攻めた時崖下に落とされたものの

這い上がると待ち伏せをしていた敵兵三人を

一度に切り倒したという話も残っている

 

 

長篠の戦い(今の愛知県新城市)では金の揚羽蝶の指物を背にした忠世の活躍が

織田信長の目に留まり

「良き膏薬のごとし 敵について離れぬ膏薬侍なり」

「徳川殿は良き家臣を持っている」と褒めたそうである 

この戦いの後二俣城(今の浜松市天竜区二俣)城主に命じられた

 

 

小田原征伐で北条氏が滅ぶと忠世は小田原城主4万5千石を任された 

家康の家臣では井伊直政 本多忠勝 榊原康政に次ぐ4番目の禄高で

高く評価されていたことが分かる

 

忠世は残念ながら泰平の世を見ることなく亡くなってしまった 

そんな忠世は「七食わず」の習慣を生涯続けた 

「七食わず」とは戦などで突然金が必要になった時に備え

毎月七日間は食事を取らずに倹約・蓄財するというものであった

と伝わっている

 

(^。^)y-.。o○

 

bye- bye  !(^^)!