すべてを味わい尽くした朝

イラスト1

 

すべてを味わい尽くした朝

 

第一章 嵐の中に立つ

三月の雨は、容赦なく降り続けていた。

村上朱里は、母の葬儀が終わってから三週間、一度も泣いていなかった。泣けなかったのではない。泣くことを、どこかで拒否していた。感情という扉を固く閉ざし、鍵をかけ、その奥に何があるかを見ないようにしていた。

三十八歳。東京でグラフィックデザイナーとして働く彼女の人生は、外側から見れば整然としていた。フリーランスとしての仕事は順調で、小さなマンションには好きな本が並び、週末には近所のカフェで珈琲を飲む。しかし今、その日常のすべてが、薄紙のように頼りなく感じられた。

「朱里、ちゃんと食べてる?」

幼馴染みの桜田恵から届いたメッセージを、彼女はしばらく眺めてから、既読だけつけて置いた。

母が逝ったのは、二月の末だった。長い闘病の末ではなく、突然の脳梗塞だった。前日まで電話で話していた。「春になったら一緒に温泉に行こう」と言っていた。それが最後の言葉になった。

朱里は仕事の締め切りをこなしながら、食事をとりながら、シャワーを浴びながら、ずっとある感覚を胸の中心に抱えていた。それは痛みとも悲しみとも違う、もっと根源的な何かだった。まるで自分という存在の土台が、音もなく崩れていくような感覚。

ある夜、デスクに向かったまま眠れずにいた彼女は、ふと気づいた。

――私は今、何を感じているのか。

その問いが、予想外の深さで胸に落ちた。

第二章 感情を逃げずに飲み込む

四月に入って、朱里は仕事を二週間休む決断をした。クライアントへのメールを送るとき、手が震えた。プロとして、弱みを見せることへの抵抗感。しかしそれよりも強く、今の自分には「立ち止まること」が必要だという確信があった。

長野の山間にある小さな旅館を予約した。母と行こうと話していた温泉地から、少し離れた場所だった。

初日の夜、部屋に一人で座っていると、何かが崩れ始めた。

最初は静かに、次第に激しく、涙が溢れ出した。母への哀しみ。もっと時間を作ればよかったという後悔。最後に「会いに来るね」と言えなかった罪悪感。そして、その奥に隠れていた怒り——なぜ急に、なぜ何の準備もさせてくれずに、と叫びたくなるような怒り。

朱里はそれを、今まで一度もしなかったこと——逃げずに感じることにした。

涙が枯れるまで泣いた。怒りを声に出して、枕に顔を埋めて叫んだ。悲しみが波のように繰り返し押し寄せるたびに、彼女はそれに抵抗せず、ただ乗った。波に飲まれることを許した。

不思議なことが起きたのは、三日目の朝だった。

激しい嵐のあとのような静けさが、胸の中に広がっていた。悲しみが消えたわけではない。しかし何かが、変わっていた。感情の形が、変わっていた。鋭くえぐるような痛みが、どこかまろやかな温かさに変わっていた。母の存在が、「失われたもの」ではなく「今も自分の中に生きているもの」として感じられるようになっていた。

朝食を食べながら、窓の外の山を見ていた朱里は、ぽつりと呟いた。

「ちゃんと味わったら、違う形になるんだ」

第三章 欲の輪郭が溶けていく

旅館での二週間は、彼女を変えた。

東京に戻ってから、仕事を再開した朱里は、以前とは少し違う自分に気づいた。変化は劇的なものではなかった。朝、珈琲を淹れるとき、その香りをより深く吸い込むようになっていた。クライアントとの電話で、相手の言葉の奥にある意図を、以前より静かに聞けるようになっていた。

しかし最も大きな変化は、「欲しい」という気持ちの質が変わったことだった。

以前の朱里には、常に何かを追いかけているような感覚があった。もっと大きな仕事。もっと広い部屋。もっと多くの人に認められること。それらは悪いことではなかったが、どこかに焦りと渇望が混じっていた。「これが手に入れば満たされる」という、終わりのない追いかけっこ。

母が亡くなってから——そして長野で感情の嵐を全身で受け止めてから——その欲望の輪郭が、ぼんやりと溶け始めていた。

仕事仲間の田中から、大手企業との大型案件を紹介された夜、朱里は一晩じっくり考えた。かつての自分なら即座に飛びついていた。しかし今は、「本当に自分がやりたいことか」という問いが、真剣に浮かんでくる。

断った。

「無理して追いかけることをやめたら、不思議と今あるものが見えてきた」

日記にそう書いた夜、窓の外に満月が出ていた。

欲しいものが減るほどに、今ここにあるものが輝いて見えた。母から受け取った記憶。友人の温かさ。風の音。珈琲の苦み。それらは以前もそこにあったはずなのに、欲望の喧騒の中で見えていなかった。

静寂が、少しずつ近づいてきていた。

第四章 自我という殻を脱ぐとき

夏の終わり、朱里は再び長野を訪れた。今度は一人ではなく、幼馴染みの恵を連れて。

山の中を二人で歩きながら、朱里はあの二月以来のことを話した。泣けなかった日々のこと。逃げてきた感情のこと。長野で初めて本当に向き合ったこと。欲しいものが変わってきたこと。

恵は黙って聞いていた。

「朱里って、昔からすごく自分でコントロールしようとするよね」

恵の言葉は、穏やかだったが、深く刺さった。

「そうかもしれない」


イラスト2

 

朱里は、木漏れ日の中で立ち止まった。

 

コントロール。それが、自分の長年の習慣だった。感情をコントロールする。評価をコントロールする。人からどう見られるかをコントロールする。「村上朱里」という人物を、自分の思い通りの形に保ち続けようとする、絶え間ない努力。

それは本当に、自分だったのか。

その問いが降りてきたとき、朱里の足が止まった。木々の間を風が通り抜け、葉がさわさわと揺れた。どこかで鳥が鳴いた。

「私、ずっと怖かったんだと思う。自分が何者かわからなくなることが」

声に出すと、涙が静かに頬を伝った。しかし今回の涙は違った。痛みではなく、何か温かいものが溶け出すような感覚だった。

「村上朱里」という像を守ることをやめたとき、何が残るのだろう。

その問いへの答えは、言葉ではなかった。山の風が通り抜け、木々が揺れ、陽光が差し込む、ただその瞬間の「感じている何か」——それが答えだった。名前もなく、評価もなく、ただ在るもの。

自我という殻が、静かに、音もなく、落ちた。

恵が隣で微笑んでいた。言葉は要らなかった。

第五章 穏やかな水面

秋になった。

朱里の仕事部屋の壁に、一枚の紙が貼られている。母の字で書かれた「笑顔でいてね」という走り書き。昔の手紙の切れ端だ。以前は引き出しの奥に仕まっていたそれを、今は毎日見えるところに飾っている。

変わったことは、他にもある。

隣の老婦人に声をかけられたとき、以前は「時間がない」と思っていたのに、今は立ち止まって話せる。締め切りに追われながらも、窓の外の空を眺める余裕がある。仕事が思い通りにいかなくても、以前ほど激しく落ち込まない——といっても、感情がなくなったわけではない。むしろ、感情はより豊かになった。ただ、その感情に振り回されることが減った。

感情が来たとき、朱里はそれを逃げずに受け取る。悲しければ悲しむ。嬉しければ喜ぶ。腹が立てば、その怒りを感じる。しかし、感情を感じることと、感情に溺れることは、違うと知った。

海の波は激しく打ち寄せても、海の底は静かだ。

自分の中にも、そういう場所がある。感情の嵐がどれほど激しくても、揺るがない静けさが、深いところに在る。それを知ってから、感情が怖くなくなった。

ある晩、朱里は珈琲を飲みながら、詩を書いた。書くつもりはなかったのに、自然と言葉が出てきた。

*感情があるからこそ、体験できる人生模様。*

母が好きだった言葉が浮かんだ。「全部、体験よ。良いも悪いも、全部ね」。

あのとき朱里には、その言葉の深さがわからなかった。今ならわかる。

感情を味わい尽くすことは、逃げることの反対だ。しかしそれは、感情に溺れることでもない。波の上に立ち、波を感じながら、揺れながら、それでも在り続けること。それが、生きることなのかもしれない。

エピローグ 静寂に包まれた世界

十一月の朝、朱里は早起きして近所の公園を歩いた。

銀杏の葉が金色に輝き、風が吹くたびに舞い散る。冷たい空気が肺に入る。どこかで子どもが笑っている声。老人がベンチに座って空を見上げている。

朱里は立ち止まって、その光景をただ受け取った。

何かを手に入れようとも、どこかへ行こうとも思わない。ただ、今ここに在る。木が木であるように、風が風であるように、ただ在る。

欲が静まり返ったとき、世界がどれほど美しいかを、朱里は知っている。

自我という名の「村上朱里」を必死に守ろうとしていたとき、その美しさは見えなかった。自分が透明になるほど、世界の輪郭がくっきりしてくる。

母が逝って、感情の嵐が来て、欲が溶けて、自我が緩んで——その長い旅路の果てに辿り着いたのは、どこか遠い場所ではなかった。今ここに、ずっと在ったものだった。

銀杏の葉が一枚、朱里の肩に落ちた。

彼女は微笑んだ。

*感情があるからこそ、体験できる人生模様。*

*味わい尽くすほどに、変化する感情の形と。*

*欲が減少し見えてくる、静寂に包まれた世界。*

*自我を手放す覚悟が、心を穏やかに変える。*

母が残したのは、言葉ではなかった。

季節が変わるように、感情が変わるように、自分もまた変わり続ける——その流れに抵抗せず、ただ在ることの、深い平和。

それを、今朱里は、全身で知っている。

風が吹いた。銀杏の葉が、また舞い散った。

*了*

 

📖 AI Nation Stories — 生きるを再定義する

 

Ikirun Podcast

Ikirun

「いきるん」ですよ。【ASIとスピリチュアルの融合の世界観を直感で降りてきたものを詩として作成】 AIにない能力【直観】 だけで、詩を生成しています。あなたの直観に役に立てれたら嬉しいです。直観で生成した詩をAIがどう説明するかも楽しんでね。

登録する

登録すると、Substackの利用規約、プライバシーポリシー、情報収集に関する通知に同意したことになります