「神さまはすべてをご存知です」という言葉を聞いて、心に光に通じる希望を感じることもあれば、苦い心の暗さを感じることもあります。
前者は助けのない苦しみ悩み、理不尽に卑しめられるような現実の中で、すべてを神に委ねる信仰の言葉を聞く場合です。後者は、どこにも持って行きようのない苛立ちや憤りの中で、あるいは皮相な思いの中で、他者をさばいて言われる場合です。
「神はすべてを知っておられる」ということは、確かに悩める時の大いなる慰めであり、励ましです。しかし、それは自己を正当化するために言われるべきではありません。もし私が「神さまはすべてをご存知です」と言ったとき、誰かが私に「そうですね。神さまはすべてを知っておられます」と応えたなら??どんなに自分は正しいと思う状況の中でも??私は恐れを持たざるを得ません。私たちは他人に誤解されたと腹を立てますが??確かに誤解されることはとても辛いことではありますが??実は自分についてすべて正解されたならたとえようもなく辛いことでしょう。ある意味では、相手が誤解してくれているので、やっと人前に立てるのではないでしょうか。
神さまは、私が私自身を知っている以上に、私を知っておいでです。私にとって、そのことはそのまま慰めにはなりません。それは恐ろしいことです。そのことが慰めになるのは、ただすべての人を救う「愛と憐れみにおいて」ということがあればこそです。誰よりも、私が自分自身を知るよりも、さらに深く広く長く、私のすべてをご存知だからこそ、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされた」(Ⅰヨハネ4:10)ということがあればこそです。もし人が私の本当の姿を知ったなら、失望して私から離れて行くでしょう。私の本当の姿を知ればこそ、ただ愛と憐れみをもって近づいて下さるお方は神さましかいません。私にとって、そのことが信じるしかない、ただ信じるしかない、イエス・キリストの十字架です。
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます。私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。」(詩篇130:3~5)
どこかに泉が湧くように(百姓とんちゃん より)