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 根室と釧路を結ぶ道道142号線(北太平洋シーサイドラインの一部)は、道東の太平洋岸に点在する漁業集落を丹念に巡る滋味深い道である。当然ながら、その道筋の大半は双六よろしく海岸に沿っているのだが、何故か根室市の西外れでは内陸へと大きく迂回している。
 例えば、この道を厚岸郡浜中町から根室方面に向かう場合、それまで海岸線に沿っていた道路は根室市との境界を越えた辺りで大きくカーブを描いて北向きに転じ、太平洋に背を向ける。そして、根室本線の初田牛駅(2019年3月廃止)跡に突き当たると再び東に針路を変え、しばらく線路と並行する。その後、隣の別当賀駅を過ぎたところで、三里浜の海岸段丘上へ向かってカーブを描くレールを尻目に、尚も林の中を縫い、落石駅の付近に抜け出たところでようやく海と再会する――といった寸法だ。
 初田牛から落石にかけての海岸線に道が通じていないのは、太平洋に臨む断崖や至るところで台地を刻む谷の存在、そして何より、この一帯が「極めて人影の薄い場所」だからであろう。

 ――と思いきや、明治の時代、幹線たる「自根室至苫小牧道」が海岸部に通じていた(まだ内陸部が未開であった当時、海側に道をつける方が手っ取り早いのは明らかだ)。
 海路による移動が主であった北海道開拓の最初期に「東海岸道南路」として整備されたこの道は、明治12年に落石駅逓、翌年に初田牛駅逓が開設されると、それまで浜中村から内陸の厚別村(アツウシベツ、現在の別海町の一部)を経由して風蓮湖岸の湿地帯を越えることで根室町へと通じていた古道に取って代わり、逓送(郵便)路線となる(明治17年には電信線が沿道に架設された)。
 明治18年、内務省はこの道を「國道43号(東京ヨリ根室縣ニ達スル路線)」の一部として告示した(内務省告示第6号)。
 当時の地形図を見れば、他にめぼしいものもなく殺伐と描かれる一帯において、海沿いに堂々と二重の線で描かれる「自根室至苫小牧道」は、ひときわ目を引く存在であり、尚且つ、最果ての道としての趣に溢れている。

 ところがその街道も、國道の指定基準が軍事上の重要性に重きを置くようになると、明治40年の路線改定によって早々と國道から降格し(代わって、東京より第七師團(旭川)に達する路線が國道43号と改正される)、北海道仮定縣道南海岸線の一部に編入されてしまう(以後、根室に通ずる国道の復活は、昭和28年に釧路から根室までの内陸経路が二級国道242号として路線指定を受けるまで、半世紀も待たねばならない)。
 更に大正期に入ると、鉄道開通や内陸における道路伸展により、この道を往来する者は激減する。
 中でも、初田牛から落石にかけての沿岸は当時でも居住者は少なかったらしく、他の区間のように生活道路として生き残ることも叶わず、地図の中で散りぢりとなる。
 そして、顧みられることのないまま、過酷な気象の地において波浪と砂塵に散々と揉まれ続けた。
 100年以上も、である。

 その痕跡と風景を確かめてみたいと思った。