銀孤独白

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人生たそがれの元技術者が科学のことや政治のことなど、思いつくまま放言します

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古くは足尾銅山から、チッソ、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、水俣病。「人の生命や健康、自然環境の維持より経済活動 (俗にいう“儲け”)を優先させてはならない。」多くの代償を払ってやっとこの当たりまえを社会の仕組みの中に位置づけた、と思っていたが、不法投棄や排出ガスデータの改ざん、有害物質の漏えいなどが後を絶たない。今も儲け優先が裏ではまかり通っている。儲ける人と被害を受ける人が別々だからだろうか?

原発にこの問題を当てはめれば「発電という経済活動のために“処理できない産業廃棄物(核のゴミ)”を排出してはならない」という単純なことに過ぎない。

では、原発から発生する産業廃棄物の場合“処理できる”とはどういうことか?

それは“最終処分場”が確定し、処分のための施設があり、受け入れ態勢が完了していることである。原子力発電のための産業廃棄物も特別扱いしないで単純な環境問題ととらえるべきである。処分できない産業廃棄物は発生も排出も許してはならない。

大体、最終処分場がないのに中間処理場だけがあるなんていうのは理屈としておかしい。中間の次のステップが現存しないのであれば、中間=最終である。中間という表現は今のところ、「いずれ最終を作る意思だけはある(保証はない、頑張ってみるけどできなかったら許して)」ということに過ぎない。中間処分場の保管期限が当初の想定、約束より、20年、50年、100年と、その都度延長されていけば(悪名高い閣議決定で?)、中間=最終となる。“いろいろ努力はしたが”という但し書きと、既に発電による利益を享受しているという既成事実付きで。中間処理施設の受け入れ側の自治体の首長も、そのあたりは十分承知の上で中間を受け入れているのではないだろうか?中間か最終かの結論が出るころには既に現職から引退しているし、現在受ける自治体としての利益の方が大事、と考えるのは下種の勘繰りか?

原子力発電はいろいろ優遇されている。処分場も受け入れ自治体への助成金(?)のようなものが必要ならば、当然、原子力の発電コストに算入する必要がある。本当に発電コストは低いのだろうか(これはこの次の“電力自由化”の話に引き継ぎます)

最終処分場を受け入れる自治体は、このままでは現れないのではないだろうか?こういう時こそ「受益者負担」である。原子力発電の受電量に応じて、各自治体への原発の廃棄物の受け入れ割合を決めてはどうだろうか?東日本大震災時の放射性のゴミの受け入れも含めて。もちろん土地が無ければ、受け入れ自治体が、金を払って他の自治体(了承すれば)に受け入れてもらってもよいが。

電気は要る、でもゴミは要らないは通じない。日本国内に日本人に放射性廃棄物を受け入れる意思がなければ、原発を利用すべきではない。これは地方自治体レベルでも個人レベルでも同じ。

 原子力発電に限らず、どの事業にも利益と不利益の2面がある。不利益の面を克服し、解決する意思があるものだけが利益も受けることができる。「おいしいとこ取り」は赤ちゃんの理屈である。

 

安全性の定義

 安全性の意味が「事故、災害が発生しない事」というのであれば、それは言葉の上だけのことで実際には存在しない。事故、災害の発生する確率は、大小はあっても皆無ということはありえない。正確に記述するならば、また機構やシステムの設計上、さらに議論するつもりならば危険性という言葉の方が相応しい。

 危険性の大小という表現では、本当の危険を隠したい意図と科学的迷信(風評被害の発生原因のひとつ)を持つ人々からの批判を避けたい特定の利害関係者には都合が悪いのだろう。

官房長官が盛んに「安全性が確認された原発は」という言葉を多用していた時期があった。最近はあまり聞かれなくなったが、原子力規制委員会から「基準に適合したということは安全性が確認されたということではない」という注意があったのではないかと邪推している。

 

原発は稼働休止中でも事故は起きる

 発電所内に放射性物質が存在しているのであれば、稼働の有無に拘わらず、外部に漏れる危険性が存在するのは当然である。

 

世界一厳しい規制基準を満たせば世界一安全か?

答えは明確に「NO」である。一種のレトリックである。規制基準が厳しい方(厳しいという表現もあいまいだが)が危険性が低いのは「前提が同じ場合」のみである。日本のように火山活動、地震、台風、大規模水害が多く、またその程度が大きい地域では「同じ規制基準であれば、危険性は大きい」のが当たり前であって、比較する、国、地域によっては「倍も厳しい規制基準であっても、まだ危険性は大きい」場合もあるだろう。発生する自然災害、人的災害とそれに続く組織的対応で考慮すべき要素が多いため、危険性は単純な数値化は難しいだろうが、ぜひ、その基準で、どの程度の危険性を見込んでいるかという定量的議論をしたいものである。

 

基準適合=受忍限度の勧告

 原子力規制委員会の基準適合の判断は受忍限度の勧告ということもできる。おおざっぱは言い方を許してもらえれば、規制基準は「この基準であれば50年に一度の災害には被害を極小化できるが、100年に一度の災害ではかなりの被害が出る」というような確率的な見方しかできない。この場合は「100年に一度の災害は、受忍許容限度である」という意味になる。(50年や100年という数値表現は説明にするための勝手な想定で根拠は無い。たとえば100年に一度と1000年に一度なのかもしれない。大小関係のみを見て頂きたい)。要するに危険性ゼロはあり得ないから、ある危険性より低い場合は仕方がない。受任範囲であるという考え方しかできない訳である。あいまいな言い方しかできないのは原子力規制委員会から定量的なデータが提示されていないからである。

 たとえば「宝くじ」。同じ買い方であれば当選確率は同じはずだが、買う価値があるかどうかは各人で判断が異なる。そんな確率ならば当りっこないと考える人もあれば、購入する価値が十分あると考える人がどちらも存在する。原発の場合も本来ならば「規制基準に対応するリスクの度合い」を提示して、それが社会的に受忍できるか否かを議論すべきであるのに、政府は国民の判断を全く信用していないし、この問題を議論できるような教育(義務教育内で行いたいものである)をしていない上に、データも提示しない。ただ判断を許さない「安全性」という言葉だけで押し切ろうとしている。

 

現在の原発の議論に関しては、このような構図に見えているのだが。

 

「公私混同」という言葉をどういう時に使いますか?

似たような言い回しに「仕事とプライベート」、「ONとOFF」というような表現があるようです。私は明確に、仕事=公用ではないし、社用=公用でもないと思っていました。(公務員じゃないし)

でも、いささか驚きましたが、辞書には公用という言葉に「社用」という用例があるのですね。多くの人が無批判に使っているので辞書で採用せざるを得なくなったのでしょうか?

 一般の企業は「私的利益」を求める「私企業」に過ぎません。その規模が大きくなれば立地する地方自治体に納める法人税の額や、賃金を与える従業員数、従業員の家族を通じて落とす「金」、関係する下請けや流通企業、寄付その他の影響の大きさから公共的性格を感じることはあるかもしれませんが、「私的利益」を求める「私企業」に変わりはありません。

つまり、町内会や自治会の会合や選挙は「小さな公」であり、会社は「大きな私」に過ぎません。自治会や町内会の「公用」が「社用」に優先することは当たり前ではないでしょうか。実態は違っているようですが。

 企業の内部規定などで、社用を公用と称しているところもあるようです。なんという傲慢でしょうか。公用という驕り(誤り)があるから、社員に奉仕(サービス残業等)させることに疑問を感じないのかもしれません。これぞ「公私混同」です。

 もっと言えば、民主主義では、「社用」を理由に「投票」させないことは明確に憲法違反ですね。投票に行かない理由を「仕事」としている人はいるのではないでしょうか?

一票の格差2倍以上で憲法違反どころではないでしょう。ゼロは100倍しても、1000倍してもゼロだから。

 

(文体は模索中)