何かにつけ見解の相違が目立つ森野夫妻であるが、唯一、完全に意見の一致を見ていることがある。その唯一の一致点とは
飼っている犬猫を「うちの子はねぇ」というお局が大嫌い!
という点である。なにしろ、この一点だけで意気投合し結婚したようなものだから、結婚12年目で未だに子宝に恵まれない森野夫妻であるが、ペットでも飼う?という話にはならないのである。9/1、改正動物愛護法施行のニュースを聞きながら、ふたりが共通して思い出したのは、結婚するきっかけになった、あの日の出来事であった・・・
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遡ること13年前、森野徹当時29歳は営業管理部で地味な統計仕事をしていた。森野遥香(旧姓椋田)当時28歳は関東営業部にいて、徹とはフロア違いだが、同じ営業本部なので会議その他で顔を合わせることも多く、年齢が近いこともあって、飲み会で一緒になることもしばしばであった。
その営業管理部の隣にあったのが関東物流部で、営業部からすると目の上のたん瘤みたいな存在であった。なにしろ、納期最優先の営業に対し、物流効率最優先の物流部であるから、すんなり意見が一致するわけがなく、すぐ運べや、とか、空気運ぶつもりか、とか、結構喧嘩腰になることも多く、その間に挟まれて右往左往するのが徹、というお決まりの構図があったのである。
その関東物流部に、それこそ名前を呼ばれると背筋が凍りつくほど怖いお局がいた。仮に名前を宮下さんとしておこう。当時で入社二十数年のベテラン女性であるが、この女性こそが陰に陽に物流の一切を取り仕切っており、彼女の機嫌を損ねると、千葉に送るはずの品が宮崎に届いた、なんてことが当たり前のように起こったから、気の利いた営業部の若手などは、手土産持参で定期的に宮下詣でをするということが常態化していた。
宮下女史の隠然たる力を快く思っていなかったのが何を隠そう、遥香さんその人である。B型の遥香が正義感から宮下さんに反旗を翻したとは到底思えないので、きっとお気に入りの水田君あたりをいじめる宮下さんを、なんやこのくそばばあ、くらいに思ったのが始まりとは思うが、社内きってのお局を敵に回すとは、なんとあっぱれな若手、ということで、遥香さんの人望も徐々に高まり、入社7年目を迎えていた遥香さんは、次第次第にお局チックになっていったのである。巷では、いつ宮下VS椋田の世代間抗争が勃発するか固唾をのんで見守る、という感じになっていたのである。
で、その日は唐突にやってきた。あれは確か営業物流会議後の打ち上げの席でのことであったと思う。
こういう時は、大体、会議を取り仕切る営業管理部が両者を取り持つのだが、この日も徹は物流部のみなさんにお酌して回る係りだった。社外で営業できないんだから社内営業ぐらいしろ、と言うのが当時の上司の命令だったので、徹はしぶしぶながら、物流の皆さんにお愛想笑いを繰り返していた。
ねえ、ちょっと森野、ワイン飲んでもいいんだろ?
宮下さんからクンづけやさんづけで呼ばれるほど出世していない森野であるから、当然、呼び捨てである。ぱしり、である。
あ、どうぞ、どうぞ
とにかく昔から気の利かない森野である。どうぞどうぞ、で終わる間抜けなところは今も昔もかわらない。
お前なあ、どうぞどうぞ、って、私に注文させる気?どうなってんの今どきの若いのは・・・って、お前、若くもないだろ・・・ハハハ
から始まって、やれあれがない、これがない、グラスが安っぽい、チーズ出せ、ハム出せ、フルーツ出せ、お前飲んでなくないか?と延々注文が続き、挙句には、ちょっとこっち来いとなって、お前、何年そんな仕事やってんだ、お前、結婚は、女いないのか?に展開し、どうやらこの日の生贄は徹だな、と誰もが思ったところだった。
が、基本、女好きの徹である。おっさんに説教されるのは我慢ならない徹だが、こと、女となると、お局だろうが誰だろうが、嫌、という感じにはならない。女好きと言うのはどうにもわからん人種である。そういう気配というのは伝わるのだろうか、お局宮下さんも徐々に機嫌がよくなってきて、徹相手に気分よく飲んでいるように思われた。
で、すっかり機嫌のよくなったお局宮下さんが、なぜかふいにこんなことを言い出した。
うちの子、かわいいんだよね、見る?
まぁ、子供の写真を持ち歩く上司は珍しくなくなっているし、女性の宮下さんがわが子を自慢したくなっても全然おかしくない。むしろ、優しい母親の一面もあるんだな、と思った徹は、
ええ、かわいいんでしょうね
と応えた。当然である。宮下さんの機嫌がよくなれば、営業と物流のこじれた関係も良くなるに違いない。A型の徹がそう考えても不思議はない。
見たい?じゃあ、見せるよ、ほら、この子!
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どれですか?
徹の目に映ったのは、犬っころを抱えて笑う中年ばばあの宮下さんである。公園らしいところで撮った写真は、横にしても縦にしても、裏返しにしても子供のコの字も出てこない。
ほら、かわいいでしょ、うちの子、まだ2歳。ねー、かわいいでちゅねぇ。
徹は写真と宮下さんの顔を交互に見比べて、この事態を正しく理解しようと試みた。が、A型の森野にとって、「うちの子」の範疇に入る人物は見当たらない。ただのくず犬とくそばばあだけである。
・・嫌だなあ、宮下さん、写真間違ってますよ、酔ってるんですか、これ、違いますよ、犬っころですよ、嫌だな、宮下さん、子供さん、見せてくださいよ、冗談言ってないで。
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それまであちこちでにぎやかに盛り上がっていた宴会が、一瞬にして凍り付いた。あの広い広間で、一斉に視線が自分に向かう瞬間の恐怖を、徹は今もって忘れることができない。宮下さんが、子供はおろか、結婚もしていないことを、知らずに相手していたのか、というような厳しい視線が突き刺さった。
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そのあとのことは言うまでもないが、般若の顔に戻った宮下さんと、なんとか宥めようとする上司たち、部屋の反対側に追いやられて凹む徹、その中間あたりで数グループに分かれて、こそこそひそひそ話をする中堅若手社員たち。仲の悪い者たちが集まった宴会というのは、大体こんな感じだね、というような宴会になった。
で、ひとり凹んでいた森野のところに来てビールを差し出したのが誰あろう遥香さんである。
いい気味。森野クン、見直したわ。
間近で遥香さんを見るのはこの時が初めてだったと思う。女性のそばかすっていうのが、意外にかわいいもんだ、と錯覚したのも、この時が初めてである。
気味悪いわ、犬っころを「うちの子」とか言うの。欲求不満のお局が寂しすぎるわ。あー、気色悪っ!
別にそこまで言わなくても、と思う徹であったが、40歳代の荒れた肌のあとに見る28歳の遥香さんの肌は輝くほど美しく見え、彼女こそ僕の女神かも、と思ったらしいが、実はメフィストフェレスであったなんて、その時は気づくはずがない。いやはや残念でたまらん。
ですよね、参りましたよ。犬ですよ、犬。うちのわんちゃんがね、くらいに言ってくれればいいのに、うちの子ですからね。2歳の娘の親が聞いたら怒りますよ、うちの子と犬っころを一緒にすんじゃねえ、って。
宮下さんを敵に回した以上、遥香さんの軍門に下るしかない徹である。
そうそう、あんなばーさん放っておいて、飲みましょうよ。ね。
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これがきっかけで遥香さんとの仲が急速に縮まり、あっと言う間に結婚に至ったことは周囲も驚くばかりであった。宮下さんの後継に違いないと思われていた遥香さんが、あっさり結婚退社したのは、宮下さんへのあてつけに違いない、という人もいたが、口さがない人は、ありゃきっと、水田に振られたからに違いないという者もいて、真相は今もって闇の中である。
なお、宮下さんは、今も会社に残っているが、所属は健康管理課に異動になって久しい。プライベートも何もあったもんじゃない、と愚痴をこぼす社員が多いのが若干気になるところではある。宮下さんのことだから、飼うのが面倒になった、と言う理由で「うちの子」を捨てたりはしていないと思うが、「うちの子」のその後を誰も知らないのはどういうわけだろう?
ちなみに、これだけははっきり言っておくが、宮下さんは、全然、麻生久美子には似てないからね!
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つづく