Grazie グラッツィエ

Grazie グラッツィエ

何も気にしない日記、それは私にとってGrazie(ありがとう)の場所。

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毎年12月になると、母と比叡山延暦寺にお参りして、来年のカレンダーを購入するのが通例になっていた。

今年ももちろんそうしたけれど、
運悪く時間が遅すぎて、
坂本から延暦寺までのケーブルが最終便となり、
最終便では本堂は閉館している時間でお参りはできず、
更に下りのケーブルの便に間に合うか分からず、
今年は延暦寺のお参りは断念することになった。

端から見れば、ありえない事態。
だからこそ、私たちは明るくそれを笑って受け入れる。

そうして坂道をくだっていた。

すると、坂の中腹にある
いつも延暦寺をお参りするだけで精一杯で、
前を素通りするだけだった生源寺というお寺に気付き、
善い機会なのでお参りすることにした。

よく分からないまま祈りを捧げた後に知ったことが、
生源寺は、延暦寺を拓いた最澄氏の生まれた生誕の地に建てられたお寺だったということ。





私と母は本堂をお参りし、母だけ少し席を立った。

その間、私はご本尊様と二人きりで向かい合った。





神様の本質は、ひと繋ぎだと聞いていた私は、
もし無礼に当たるのなら許してほしいと断りを入れ、神様に語りかけた。



あなたにとって、私の言葉など、

取るに足らないような、ちっぽけなものかもしれませんが、

2014年は、とても素晴らしい年でした。

私が、この世で最も愛せる人に出会えた奇跡、

その人にとっても、価値ある出会いに出来ただろうと思えるように生きさせてもらえたこと、

その人を、愛する形を変えないまま、愛する祈りに替えて実践できたこと、

とても素晴らしい日々だったということ。

美しくて、愛おしくて、素晴らしい、

悲しくて、苦しくて、でも救われた日々の一年だったこと、

それらのすべてに感謝したということ。





ご本尊を見つめながら、
そこから更に踏み込んだ言葉が、私の口からこぼれ落ちてきた。





もしも、前世や今世、来世があるのなら、

私とあの人は、きっとどこかで結ばれていたはずだから、

今世を生ききった、あの世か、来世では、

いつか、また、一緒に暮らしましょう。

一緒に生きていきましょう。

だから、お互い、

この世を精一杯、誰かのために生きていきましょう。

そうすれば、きっと、

お互いの箇所で、それぞれ素晴らしいことが生まれて、

その分、素晴らしいことが増えるはずで、

きっと、神様も大変お喜びになるはずだから、

いつか、一緒に暮らしましょう。

彼も同じ気持ちでいてくれるなら、

それを彼に届けてください。

いつかまた、一緒に暮らしましょうと。



あなたも私も、別々の場所で、

それぞれの場所で、誰かのために生きる。

誰かのために生きる人を、神様は決して見捨てたり、見逃したりはしないから、

そうすることで、神様はきっと願いを叶えて下さるはずだから、

私の願いも、あなたの願いも、

きっと叶えることができるはず。



もし、あなたも私と同じことを願うなら、

今を精一杯、誰かのために、お互い生き抜きましょう。



泣きながら、ご本尊様に向かってそう呟いた。

言わされたわけでもなく、自分の意思と意志でそう呟いた。

とても辛くて、半年前は耐えられなかった。

でも、年の瀬に呟く寸前この瞬間には、

私に必要な学びのような気がして、泣きながらでも呟くことができた。

これを乗り越えた先に、ようやく私の学びが始まって行くような気がした。

だから、敢えて言葉にする。

声に出して、自分に知らせる。

同じことをしても留まるだけだから。









愛してる。
何百回と呟いた。



あなたが休みの金曜日のある日、

私は、神社で口ずさむようにゴスペラーズの『永遠に』を歌った。





「会いたくて会えない夜 想いを空に広げて
飛んでゆくよ そばにいるよ
同じ気持ちでいるなら」





このフレーズを歌った瞬間、

突然大風が舞って、私の全てを駆け廻って行った。





「あなたの風になって 全てを包んであげたい」





自分がおめでたい人であっても構わない。


この風はあなただと、


同じ気持ちでいてくれたんだと、


私は繋がりを信じたい。








福山雅治さんの『最愛』という歌にあったように、


愛さなくてもいい。


愛せなくてもいい。


強がってるだけでもいい。


ただ、繋がっていたい。


その繋がりが私の避難所になるから。


あなたは私の避難所になってくれた人だから。








去年から、それよりもずっと以前から、


ずっとずっと、欲しがっていたのは避難所だった。


傷付いた身体はハーブで癒し、


見えない傷を負いやすい心は、アロマで癒して鍛えていく。


癒す術は手に入れた。


癒す方法も知っている。


なのに、心の奥底はいつまで経っても落ち着かない。


癒す空間だけが足らなかった。






幸い、休憩所や隠れ家はいくつもあった。


けれど、私が「ここでは隠す必要がない」と安心して、


心の底から委ねられる場所は、


たったひとつだけだった。


それができるのは、あなた一人だった。







あなたは私の避難所だった。


でも避難所は、留まり続ける場所ではない。


身体の傷を癒し、心の傷を癒したら、


もう一度立ち上がって、闘いに向かうための場所だから、


私は、前へ進んで行かなければならないんだと思った。


悲しくても、辛くても、ここを離れるものなんだと悟った。


避難所は、いつだって簡易的な造りで、


一生の住まいにはならないものだから。





でも、振り払うように前へ進むのは、


とても寂しくて悲しいから。


それは、あの人に傷を残してしまうから。


心に一つ、約束を抱えるように、


心に一つ、支えを持つように、


愛情の込もったお弁当を抱えて旅立つ小さな子供のように、


私は、前に向かおうと思った。


あなたの支えようとする愛も、


離れゆく寂しい思いも、


全部を、愛情の込もったお弁当にして、


食べて、私の中に取り込んで、


すべてを大事に携えて、前に進んでいくことにした。







愛してる。


あなたが幸せでありますように。


あなたの幸せが、彼女の幸せであればと願っています。


彼女が幸せでありますように。


幸せな彼女を見て、微笑むあなたが幸せでありますように。


落ちて止まない雪のように、


あなたに幸せが、たくさんたくさん舞い落ちますように。


あなたのもとに、嬉しいことや幸せなことが、


たくさんたくさん降り積もりますように。


それだけを願って、


あなたに愛の祈りを捧げます。







ただただ、Garazie infinite.


そして、神様、


あなたに喜ばれる人生を、どうか私に歩ませてください。


Have lovely days...
for me.
昨日は七夕。

先々週あたりから、勤め先の病院のロビーに、笹が2本立てられていた。
短冊に願い事を懸けられるように、机に短冊とペンと紐が置いてあった。

書きたいなと思ったものの、
うまく言葉にならなくて、最初は書けなかった。



やがて、笹にはいろんな切実な願いを懸けた短冊が掛けられるようになった。

手の痺れがなくなりますようにと書かれた短冊や、
自分の力で歩けるようになりますようにと書かれた短冊、
小さな子どもの字で、友達が早く元気になって一緒に遊べますようにと書かれた短冊。

その中で、何の不自由もしていない私が
一体どんな願いの短冊を掛けられるのだろうと、
何だか、自分の書こうとしていた願いが、とても浅いものに思えてしまって、
思わずまた手を引っ込めてしまった。





書けなかった願いを、今もうまく言葉にできない。

「Someone To Watch Over Me」という歌のような心境だというのは、分かっているのだけれど、
それを願いにしてはいけないような気もしているからなのか、
本当に、どう言葉にしていいか分からずにいるからなのか、分からないけれど、
とにかく言葉にはできない。



There's a somebody I'm longing to see.
逢いたくてたまらない人がいる

I hope that he turns out to be
その人が、彼であってほしい

Someone who'll watch over me.
私を見守っていてくれる人



自分の願いを書く代わりに、
誰かの願いが叶うことを願うことにした。

「あなたの願いが叶いますように。
あなたも私も、愛すべきものに触れられますように。」

七夕の日に、私は、
家族といつも通り夕食を食べて、
祖母の行動に皆で笑い合って、
その平和な時間を、
幸せだなぁと、しみじみと愛せていたいなと思った。
そう願いを込めて、短冊を掛けた。





7月7日、
ロビーの2本の笹は、柳のようにたくさんの短冊で枝垂れていて、
金や黄や青など色とりどりの短冊が、
まるでイルミネーションのように見えて、
クリスマスツリーにように、たくさんの願いが詰まって、キラキラしているように見えた。

それを見て、私は何だかとても嬉しくなって、
自分の短冊に書いた願いが、本当に叶ってほしいと、心から祈った。



Dreams Come Trueの「7月7日、晴れ」の歌に、こんなフレーズがある。

「奇跡は起きなくても
ベガとアルタイルが会う  今夜は
晴れるように祈ろう」



奇跡が起きることを、私はずっと願っている。

その奇跡を願うことは、

自分の知らない所で、誰かの何かが失われてしまうことを意味していて、

そんな願いなら、願いたくないと思う自分がいても、

私は、偶然の奇跡を求めるように、

いろんな道を歩き続けてしまう。



奇跡は、そんな風に願って起こすものじゃなく、

どんな苦しさにもちゃんと立ち向かって、向き合って、受け入れて、

乗り越えようとするその先に、

優しさが溢れるような未来を築けるに違いないと、

希望を持ち続ける人の元に、

神様がそっと置いていってくれる贈り物だから、

願うだけでは起きないと分かっていても、

私は、偶然の奇跡を求めるように、

いろんな道を歩き続けてしまう。





でも、今年の七夕は、
心の底から、誰かの願いが叶ってほしいと思った。

私の願いは、願っていいとは言いにくいようなものだから、
私の願いはそっとしておいて、
その分、誰かの願いが叶ってほしいと思った。




その夜、私は夢を見た。

逢いたくてたまらなかった人が、

夢に出てきてくれた。




どこかのリビングのソファーに座っていて、

あの変わらない、陽だまりのような優しい笑顔のまま、

木のオモチャみたいなもので、私の頭をコツンと小突いた。

私もなぜか、小突かれた理由が分かっていて、

「エヘヘ」と言って、彼の隣に座った。



彼はずっとニコニコしていた。

私もずっとニコニコしていた。




そして、いつの間にか、

私は違う人の隣に座っていた。













一瞬だけでも、


彼の隣にいられたことが嬉しかった。





夢で逢えたらと願っても、

中々出てきてくれないものなのに、

夢で逢うことができた。








短冊の願いは、本当に叶うんだ。


神様、本当に本当に、ありがとう。


束の間でも、これ以上ないくらいに、とても幸せでした。


Grazie infinite.


あなたに喜ばれる人生を、


これからも、どうか私に歩ませてください。
誰かと距離が近付くたびに、


愛情に飢えた自分が現れる。


それは、


乳飲み子のように「まだ物足りない」と貪欲になるものではなく、


近付いて、触れ合って、


「じゃあ、またね」と、離れた後に現れる、取り残されたような虚しさ。














魂を粗末にしてはいけない。


最近考え出した答え。


魂は、粗末に扱うべきじゃない。














だけど、許してほしい。


粗末には扱わないけれど、


今の私は、ジンをストレートで飲む。


少し身体が痛いと訴えかけたりもするけれど、


今日はストレートで飲んでいたい。










少量ずつ飲むから。






心を、閉ざしたくないから。










今は許してほしい。