この瞬間まで、実に15年間という歳月が流れた。
それはクジラを見に行くのではなく、クジラから意思を伝えられる体験である。
初めてクジラに意識を向けられたのは2006年一月。
それは彼らの世界を知らない僕へのギフトであった。 そのギフトを得てからの人生は180度転換した。自分のルーツの背骨に沿って生きるようになったのである。
そして2021年三月の今日、色々なことが重なって、一艇のカヤックに乗った二人だけがこの広い海の上に浮いていた。 15年前と違うのは、彼らのことを好奇心から覗くのではく、敬い、理解を深め、謙虚に居させてもらうこと。
ビーチの比較的近くに子クジラが浮いては沈みを繰り返していたので、カヤックで向かい100mくらい手前で漕ぐのをやめた。
彼らは同じくらいの距離を保ちながら岸の方へ移動して行った。
僕の理解が正しければ、それはあまり警戒していないことを意味している。
そのまま同じ場所で彼らと同じ時間(40分ぐらい)を過ごした。
観光ガイドなら、待てずにすぐに接近を試みるだろう。 写真家ならば、獲物を狙うように近づくための企てをするだろう。 これらの行為は、結果として彼らを商品のように扱うことになり、リスペクトに欠けている。
クジラと共にいるというのは、お互いの距離感を侵すことがなく、何も期待しないということだ。 相手を思いやり、あからさまに好奇心をぶつけない。
ストーキングもハラスメントもせず、お金のやり取りもない。
時間をかけて信頼を育む恋愛に似ている。
“being with them” 彼らとここに居る。
カヤックの後ろにいるShizen君が「別の場所に移動しようか?」と聞いてきたので、
「もう少しここに居よう」と答えた。
それは少しずつ信頼関係が築けている感覚があったからだ。
犬が遊んでほしい時に、伏せて前足で地面を叩くしぐさをするのをお分かりだろうか?
そんなエネルギーを発しながら、急に子クジラが頭をこちらに向けた。
尾びれで数回水面をかき回してから海に潜った。 次の瞬間こちらに向かって子クジラの全身が水面から跳ね上がった。 続いて大人のクジラ、また子クジラ、もう一頭の大人のクジラが次々とブリーチング(ジャンプ)した。
僕の体重の600倍はある”水中のいのち”が水面高くはね上がると、おおきなエネルギーとなって水面にぶつかり、大音響と共にしぶきをあげ、それがカヤック上の”水面のいのち”にとどくのだ。
儚い”水面のいのち”は、木の葉のようにゆらゆらと揺れながら、目で圧倒され、耳ですくみ、身体で余韻を感じる。 かれらは11回もブリーチングを繰り返した。 それは訴えているようでもあり、喜んでいるようでもあり、誘っているようでもあった。
彼らはまた元の距離を保ち、そこに静かに留まった。 その余韻の中、僕とShizen君は、もう十分なので帰ろうと思った。
“More than enough” (もう十分)
海は彼らの住む世界。いのちのあるべき姿をリスペクトした者だけにこの充実感が訪れる。
自然と共に生ききようとするときはいつもこの内なる声が聞こえる。
“More than enough”
それは所有することも、保存することもできず、あらゆる企てから切り離された世界。 人間の世界に例えればお金と真逆のエネルギーなのだ。
野性いのちと出会うとき、お互いのいのちは一期一会。 もう二度と会うことがないだろう彼らとの、いのちの循環を感じること。
今さっきの出来事なのに、すでに何年も前の出来事のように感じ、心の奥底に深く刻まれる。 浦島太郎の物語はきっとこれを伝えたかったのかもしれない、 そう思う。
熟成されたワインを口に含んだ時に感じる深みにも似た独特の満足感でこころが満たされる。
野性とのいのちの循環に慣れは禁物。その聲を聞きたければ、できるだけ道具を使わず、弱々しいままのあなたで会いに行くこと。
そうこれはイベントやショーではない。 種を超えた、いのちといのちの循環そのもの。それらが脈々と紡がれて地球という星は生きている。
15年間のクジラとの経験から得たエッセンスを、今日若いShizen君に繋ぐことができたと思った。 この感覚はいつかさらに若い誰かへと繋がれるだろう・・・
