ハワイ時間今日の午前0時から約3時間、

”ライオン・ハート・トーク”というZoomミーティングに参加させていただいた。
主催はEmiko Tokai Umiraさんで、南アフリカでホワイト・ライオンの保護活動などに関わっていらした方だ。

https://www.facebook.com/lionhearthome

 

 

 

Zoomミーティングを最後にしてから一年近く経っているので不安だったが、始まってみれば有意義な時間があっという間に過ぎてしまった感がある。

多くの気付きを頂いた本ミーティングを、企画し実施されたEmikoさんに心から感謝する。


「ありがとうございました」

 

南アフリカには、珍しいホワイト・ライオンが生息する場所があり、彼らは13頭位まで減っているという。
年間一万二千頭くらいのライオンの繁殖(?)が行われ、それらはトロフィー・ハンティングという射殺ゲームのために育てられているらしい。参加費は100万円~350万円くらい。その育て方にもビジネスモデルができていて、生まれてから殺されて骨になった後まで、全て経済活動の一環になっているそうだ。

 

ワーク中は初めて聞くことばかりで、中々自分の問題として捉えることができなかったので、知っていることや経験したことに置き換え、自分の問題として捉えるように工夫しながら耳を傾けた。


私事だが、Covid-19で日本からの観光客が0になる前から自然ガイドを辞めようと思って帰国を考えていた。その理由がこのミーティングで話し合われたことと深くリンクしているのに驚いた。


南アフリカのライオン虐殺と、マウイ島の自然ガイドとどのような共通点があるのか?


ひとりの女性参加者が、多くのライオンは失意の中人間の余暇として命を奪われているという話をされたとき、Emikoさんは涙ぐんでおられた。

このとき同様の事がマウイ島の自然環境でも日常的に行われていると思ったのだ。

 



魚の乱獲、水族館の弱った魚やサメを海へ投棄すること。イルカやクジラ達を毎日追い掛け回す、自称エコ観光船。野鳥へエサを与えること。動植物のテリトリーへ無秩序に入り込むこと、etc・・・

観光ビジネスのために、理不尽に利用され続ける自然は、自然と直結するハワイ文化を始め、日本や他の文化へのハラスメントまで際限なく広がっている。

僕の自然ガイドはハワイの自然を、日本人観光客向けに、動物園や水族館のショーのように見せ歩いてお金を頂くこと。これは自然へのストーキング行為とハラスメントに他ならない。これらを恥ずかしいと思うようになり、自身に嫌気がさしたのだ。


菜食主義者の主張の様に、需要がなければ供給淘汰される論理は、観光業にも通じるのだろうか?

スーパーやデパートの商品戦略、新しい工業製品や電化製品も次から次へと息つく暇もなく消費者をあおってくる。
流通業者、生産メーカーのビジネスモデルをいかに成長させるかが第一優先で、人々の豊かな暮らし、環境維持などは二の次、三の次の様な気がする。
便利なSNSもなぜ無料なのか?もう考える人はいないだろう。それはSNS利用者が自発的に発信する情報を生産者へ販売し、商業を活性化できるからだ。
ライオンの命を商品にするのと同様、人間の生活ビジネスモデルに組み込まれているのだ。

 


自然というのは「自ら然る」ということだと、映画ガイアシンフォニーの龍村監督の言葉で気づかされたのと同時期、2006年1月にザトウクジラと一対一で出会ってから、自然の本質を追い求めて一か月間アラスカを冒険した。

そこから日本文化に深く関わり、様々な体験を経てたどり着いた現在の答えは、


野性の命がもし話せるとしたら「Yes」としか言わないということ。

実をたわわに付けたリンゴの木は、その実を食べる鳥や動物、虫に対して決して「No」とは言わない。

ライオンに食べられるシマウマでさえ最後はとてもやさしい眼差しで、その命を明け渡しているシーンに出くわす。
中央アジア、キルギスのお葬式で牛の屠殺に参加し、五感でそれを感じた。
 

はたして人間の死はどうだろう?

もし誰かに殺されるとしたら、その顔は恐怖と苦痛に満ちた顔になっていることだろう。


僕はあるとき自然の中で、野性動物と人間との大きな違いは「所有」の概念だと、そして人間のそれは度を超えていると感じた。

人間は、土地や貴金属やお金だけでなく、いのちまで所有していると勘違いする生き物なのだ。


東大の解剖学教授の養老孟子氏の受け売りだが、「己の死自分のものではない。なぜならその瞬間、すでに死んでいるので意識できない」と仰っている。
を見て切なくなるのは、自分と同化した他の命の終わりだけなのだ。
今は死の定義をする時間ではないのでこの辺でやめておこう。


「備蓄」しないと環境の変化で死を免れないと悟った人類は、冬を越せるようになった。

同時に生まれたのが「武力」だ。備蓄できずに命の危険にさらされた人々は「略奪」に走るからだろう。

 

インターネットなどで情報が蔓延してくることも同様に、必要以上の情報を手にすると、こころが病んでくる。
人間社会は問題だらけだなので、いちいち首を突っ込んでいるとその首が回らなくなるのだろう。

 

 

今日は南アフリカ人権の日 

 

 

他所から来た支配者達によって、理不尽に人権をはく奪された人々に助けは必要だが、西洋諸国でルール化された社会の秩序を押し付けても、それは全ての国には当てはまらない
環境や文化が各々違うからだ。

 

また、被雇用者や奴隷から搾取する権力者達に、個人ではなかなか立ち向かえない。
かといってそれらを擁護する団体を作ると、初めの内はいいが徐々に腐敗してくる。


相手を理解するという精神活動は、痛みを伴う個人的感覚(体験)からしか生まれないからだろう。
他人の問題として組織を引き継いだ者は、必ずといっていいほどビジネス(金銭)に走るのが常だ。

 

いつの時代も、物事の本質はとてもシンプル。それが複雑であるときは、誰かの作為が混入していることが多い。

でもそれらが文化や芸術を創ることがある。生活に余裕が生まれると、文化芸術はさらに成熟してゆく。

 

余裕の中から「民族文化」と「余暇」という二つの異なる精神活動が生まれて来たとする。

民族文化非所有環境の中で自然と共に生まれ、余暇所有をエネルギーとする社会の中で生まれるような気がする。
 

いずれにしても人間は「無駄好き」で、遊び心という名のもとに、ついつい「雑」を追い求めてしまう。
「雑」とは英語の“Rough”ではなく“Crude”(=粗末,  粗悪, 野蛮, 未成)の事。

その「雑」によって自然界のあらゆる命が翻弄され、不自然が生じるのだ。


頭の中が雑音で満たされた時は、自然の中に身を置くといい。
道具を持たず(虫よけすら)、できるだけ生身で飛び込むのだ。その時、他の生命との距離感を体感できる。

音や匂いはするのに姿が見えない位が丁度いい。
それ以上近づく支配と服従(捕食と獲物)のつばぜり合いに発展するかもしれない。

 

自然の中では、命を奪うことにも、明け渡すことにも 「Yes」 になるからだ。

 

現実社会は実に「No」を多発する。反対意見を伝えなければ人権は守られず、いつの間にか自分まで奴隷化されてしまう。

 

ライオンやサメが美しいのは、牙を身に着けているからだと思う。彼らは「No」を言わない代わりに足るを知りつつその力を行使する。

それにより自然界のバランスが保たれる。

 

彼らが自然保護団体の人間と違うのは、それを無意識に行うことである。
無意識な行動から地域全体の秩序が保たれた時、祈らずにはいられない気持ちになる。

 

「自ら然る」というのはそいうことだ。

 

人類の意識は彼らの牙ほどに進化を遂げていないのかも知れない。