子供のころから自然科学や物理に興味があった僕は、数字計算が嫌いで、結局それらは中途半端になってしまった。
20代前半に理系のサラリーマンを辞めて、自然案内人という仕事をしてきたが、心が求めていたものとだんだんかけ離れていき、いつしかそれらを精神世界(スピリチャル)へ求めるようになった。
そのスピリチャルな世界でも多くの矛盾にぶつかって、それも中途半端になってしまった。
なぜこうも自分の心が抱く世界を表現することが出来ないのだろう。
この虚無感はついには生きている意味まで失うところまで来ていた。
そして一年前、写真とビデオ撮影を本格的に始めてから、物事を感覚だけではなく、実際のデーターから捉えるようになった。
実例を挙げれば、写真の構図選びをセオリーに基づいて決定すると、とてもバランスのいい写真になって見栄えがする。
水平を保ち、縦横3分割した場所に見せたいものと(主題)、それを盛り立てるような(副題)を割り当て、できるだけ奥行きが出るように遠近法やボケを使う(余談だが英語でもボケはBokeと呼ばれている)。
そんなことを繰り返しながら、そこそこいい写真に見えるものが全撮影の約1%くらいの確率で撮れるようになってきた。
しかしそれらは意識的に追い込んだというより、最後の最後は偶然そうなった感じで、自分の腕でコントロール出来てはいないことに苛立ちを覚え始めた。
あるとき「春宵十話」という本を偶然読んでから、目から鱗が落ちたように、自分の心が描く世界を表現することに希望が生まれた。
著者は明治の終わり(1901年)に生まれた数学者で岡潔(おかきよし)という。
その方が1963年に話されたことを毎日新聞社が本にしたのが「春宵十話」なのだ。
彼は世界で初めて多変数複素関数を証明した方で、いわゆる天才なのだが、僕が一番驚かされたのはそのことではない。
「情操を唯一表現できるものが数学である」という一行をその本で発見したことだ。
数学というのはそれとは逆のものであると、50年間信じて疑わず、極力避けてきた。
今思うに、外から押し付けられる計算問題に、僕の情操が反抗したのだと思う。
「情操を唯一表現できる」一例を挙げれば、7という数字が3つ並ぶとなぜか嬉しくなったり、11月22日に婚姻届けをする人たちが多かったり、今週のラッキーナンバーなどに妙に反応したりすることがあるが、はじめはそれを思い込みや誘導のせいだと思っていたが、国際的に共通するようなケースもあり、そこに数字の真の意味が隠されていると腑に落ちた。
岡氏いわく、「数字は外側にあるのではなく、自分の内側(情操)にあるのだ。だから計算式を紙に書いて分かったような気になるのでなく、風呂にでも入りながら頭の中で味わうものである」と仰っている。
これは凄く高度な者にしかできないと思わずに、僕はこのように感じることにした。
24という数字を心の中で見たときに、一日は24時間からできており、それは12が二つ集まったもので、その12とは一年の月の数を表している。
6なら4つあれば24になり、6自体は2(偶数)でも3(奇数)でも割り切れる面白い数字でもある。
そんな素晴らしい数字なのに、定期的にうるう秒で時間調整しなければならないのは、
自然界を奇麗に説明するには、実数だけでなく、複素数(虚数)が必要だからだろう・・・・そう感じる。
その本の読者が、岡氏にたくさんの感想を手紙に書いて来たり、学生が訪ねて来たりしたそうだが、9割以上がただの共感から分かったような気になっているだけで、自分の情操からにじみ出た直接の疑問をぶつけてこないと嘆かれた。
昔から人の話や常識をうのみにするのが僕は大嫌い。だから外国に住んでしまったのかも知れないとさえ思う。
そして追い求めても、表現できなかったものの答えは、虚数の中にあるのかも知れないと今思い始めている。
数学を嫌いだったのは、他人の物差しを外側から押し付けられる学問で、数自体は自然数から実数(有理数、無理数)までしかないと思い込んでいたからだと思う。
量子力学や素粒子理論などで宇宙の仕組みを考えるとき、時間という概念がなくなることが起こるそうだ。
残念ながら僕の脳はそれらを理解し説明するところまで発達していない。
でも感覚的に知っているような気もする。
答えは自然界の中にあるのではなく、自分の中の情操から生まれる気がして来た。
自然を注意深く眺め考察するときに、自分の中の情操が磨かれるから、美しものはより美しく見え始め、高い意識が育つ。それは言葉遣いや顔つきに現れ、周りの人々を高い意識へと導くように思う。
個人的な情操は、味噌も糞もひっくるめて、宇宙に影響を与え、押し広げていくのだろうと想像する。
その創造力を当面は写真撮影のなかで味わわせていただくことにする。
