最近、朝目が覚めてからのひと時が、たいへん気持ちいいです。あるがままに自分の身体の状態に目を向けていると、いつのまにか、幸福な感じになっているのです。夜熟睡して、スカッと目が覚めれば、それに越したことはありません。でも、なかなかそうはいきません。むしろ、それは少ない。身体がだるかったり、眼の疲れや肩のこりが残っていたりします。それを、だるいならだるい、疲れているなら疲れている、とその感覚を容認して慈しんでいます。

 

そして、窓をカタカタ言わせている風の音を聞き、身体の中を巡っているいろんな感覚を感じ取る。きのうのこと、きょうすべきこと、浮かんでくるけど、浮かんでくるまま。

 

そうすると、いつのまにか、身体のだるさは軽くなっています。安らいだ感じがあります。いつのまにか、ひょいと起きてゴミ出しにでかけます。自分で自分に命令指示せずにです。

 

自分では、これのことを「瞑想」と呼ぶときもあるし、「体内民主主義」と呼ぶときもあります。感覚や感情の言うことに耳を傾け、どこからでも平等に知恵が湧いてくるのにまかせるからです。

 

私たちは、だれでもが尊重され、意見を言える社会を作りたいと思います。そのため、民主主義を発展させようと考えます。

 

ところが、いたるところに、暴虐なあるいは狡猾な支配があります。諦めと引きこもりがあります。

 

民主主義を運営するには、意見の言える、話し合いのできる個人が必要です。

そういう、意見の言える個人にたどり着く前に、一人の人間としてのまとまりのところで、私たちはぐちゃぐちゃなのではないでしょうか。

 

大人になると、生きていくために必要な感覚に対して、たいへん暴力的に対応することが、当たり前になっています。私たちは、自分の身体の感覚に対して、意識を向けることすらせず、ただひたすらに従わせようとしていませんか。

たとえば、疲労感のあるとき、私たちは自分の身体に注意を向け、ケアしているでしょうか。おそらく、疲労を感じそうになっただけで、条件反射的に感じないようにしています。感じたとしても、「こんなことじゃだめだ」と自分を叱りつけ、激励しています。

もちろん、頑張るしかないという状況はしばしばあります。しかし、それは自分の身体と闘いを起こすということではないでしょう。

 

私たちは、自分の感情に気づいているでしょうか。

たとえば、悲しみは、生きていくのに重要な役割があります。何かに挫折したとき、大事なものを失ったとき、涙で流してしまうことは偉大な生命の智慧です。それができなければ、私たちは立ち直れません。でも私たちは、悲しみを抑圧するのです。

 

私たちは、自分の感覚、感情に対して、たいへんな専制政治体制を作っています。その専制政治から、物事を見通す力、他者を理解する力が生まれてくるでしょうか。

 

これを解決するのは、大人になってからだと、簡単ではありません。しかし、子どもたちの感覚、感情を尊重することはできます。それが民主主義の基盤だと思うのです。

 

 


教育問題・教育論 ブログランキングへ

 


経済学 ブログランキングへ