文科省が今年の9月14日に「不登校児童生徒への支援の在り方について」という通知を出しました。この通知は、登校至上主義からの脱却を求めています。文科省は90年代に「不登校は誰にでも生じ得る」という見解を出していましたが、今回はそのあいまいさを抜けて、さらに一歩を進めました。

 

 通知の中に、こういう文言があります。

「不登校とは,多様な要因・背景により,結果として不登校状態になっているということであり,その行為を『問題行動』と判断してはならない」

 

 そうなんです。まさにそこが核心です。

 私は、私塾、フリースクールをしていて、不登校の子どもたちにたくさん出会ってきました。不登校は怠けや非行の一種だと思っている人が多いです。それは間違いです。不登校になるのは、ほとんどは「よい子」です。精神年齢は高め、気遣いができる、自己主張は不得意、そういう子どもたちです。

 

 不登校は、サラリーマンが職場のストレスで出社できなくなるのと、同じ現象です。でも、子どもたちはサラリーマンよりもっとつらい立場です。サラリーマンなら休職も、退職もできます。ところが、学校の児童生徒だと、「嫌だ」「つらい」すら言えない。ですから、口では「学校に行く」と言います。でも、身体がついていかなくなってしまう。朝起きようとしても起きられない。学校の前まで来ると、足がすくむ。教室にいるうちにお腹が痛くなる。これが、典型的な不登校です。

 

 子どもを襲うのは、これだけではありません。その後の二次災害があります。不登校の場合、この二次災害のほうが大きいのです。つまり、教師も親も、子どもが学校に行かないことにしか目が行きません。『問題行動』と見て、責めたて、行かせるために必死の努力をします。そうすると、子どもは「学校に行かない問題児」になります。そのうちその子は、「自分はダメな人間だ」と信じ込んで、立ち上がれなくなるのです。

 

 そもそも国際的に見て、社会問題になるほどの不登校は、日本に特有の現象です。日本では、公立学校に子どもが合わなかったときのセーフティ・ネットが用意されていません。学校から逃げ出す自由がないし、別な教育を選ぶ自由もないというのが、日本の教育制度」なのです。そのために、『いじめ自殺』や『不登校』が生じます。不登校で苦しんだ人たちは『制度公害』の被害者です。 

 

 日本のいたるところに、将来を絶望した親たち、恐怖と不信に凍りついた子どもたち、深刻な家庭内暴力などが生まれていました。それは、生き地獄と言ってよいものでした。子どもたちは、泣き叫び、暴れ、閉じこもりました。教師は「頑張りましょう」と言うしかなかった。行政は「適応指導教室」を作ることしかできなかった。親たちは、はじめは子どもと闘い、やがて疲れ果てました。

 

 もちろん、家庭によって苦しみの程度は違います。最近は、追い詰められ方が軽くなってきています。しかし、全体としてみれば、不登校の苦しみは、水俣病、イタイイタイ病などの公害に匹敵します。不登校は数が多いのです。自殺者も出しています。現在、過労に起因する自殺が労災と認定されるのですから、不登校にまつわる自殺も公害による死者と考えるべきだと思います。、

 

 実は、不登校問題は、簡単に解決することができます。義務教育を「学校へ行くこと」ととらえず、親が子どもの教育を手配する義務と捉えれば、解決します。家庭で休養することも、学校以外の学びの場を見つけることも、義務教育の履行となるからです。

 

 たとえば米国には、学校恐怖も落ちこぼれもたくさん存在しますが、不登校問題はありません。すべての州で、ホームスクールが合法だからです。多様な私立学校を作る自由もあります。学校に行けないなら、他の教育に切り替えればいいだけなのです。

 

 不登校は、制度問題です。子どもも、親も、教師も、どこにも悪人はいません。しかし、関係者の誰もが、自分を責め他人を責め、追い詰められていくのです。

 

 今回の文科省通知は、現在の学校制度の中での解決しか提示できていません。しかし、真実に目を向ける一歩になっています。

 

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 信濃毎日新聞という長野県の新聞の教育コラム欄に、記事を書かせてもらっています。この一文は、2016年11月2日号に掲載された記事をもとに、加筆したものです。 

 

 
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