夏目漱石の『こゝろ』をYoutubeなどではなく、活字で読める激ヤバ外人集団(米国人+中国人)に同著の背景等につき話す機会があったので備忘録兼再利用目的で記しておきたいと思います。

 

夏目漱石の『こゝろ』が朝日新聞で発表された1914年は、第一次世界大戦の年。日清戦争と日露戦争に勝利した日本は軍国主義真っ只中の大正3年。

 

明治の文豪である夏目漱石が胃潰瘍で49歳(1916年/大正5年)で亡くなる2年前の晩年の作品。当時の平均寿命が42-43歳であることに対し、晩年は病による吐血などで苦しんだ漱石は、意外と長生きで、現在も東大医学部でホルマリン漬けにされている彼の脳みそは、平均約1300gに対して 約1400gと、平均より1割くらいも重いとのこと。

 

夏目漱石の本名は、金之助で、漱石は、漱石万流という中国から来た、負け惜しみを意味する四字熟語からとったとされています。西晋のころ(三世紀)、孫楚さんという方が隠居しようとして、お友達の王済さんに、「これからは、石に枕し流れに漱ぐ人生を送る」と言うところを間違え、「石に漱ぎ流れに枕する」と言ったことに起因するのだとか。

 

金之助さんは、江戸時代の終わりの年(1867年/慶応3年)に新宿区で生まれ、現在の東大文学部卒業後、中学校や熊本の第五高等学校の講師を経て、文部省からの命令でイギリス留学。帰国後は、現在の東大で英文科の講師/英文学研究をしていたが、授業は不人気で、本人も英文学に違和感を感じていたところ、知り合いの正岡子規に小説を書くことを勧められ、1905年から雑誌ホトトギスで連載した『吾輩は猫である』が大ヒット。1907年、40歳で東大を辞めて朝日新聞に専属作家として入社します。それから、『坊ちゃん』、『三四郎』、『それから』などを始めとする名著を生み出し、亡くなった後は、『こゝろ』の中にもKのお墓があるところとされている雑司ヶ谷に埋葬されました。

 

1984年から2007年までの20年以上もの間に夏目漱石が肖像が印刷された千円札が発行されていたこともあり、日本人は、教科書や千円札を通して、夏目漱石の顔を知っています。

 

夏目漱石の作品については、出版されている本を通して知るほか、教科書に掲載されていたり、中学校の受験などで文学作品の作家と作品の把握を通して触れる機会があります。

 

『こゝろ』は、「上 先生と私」、「中 両親と私」、「下 先生と遺書」の三部構成で、教科書や試験の題材として取り上げられることが多いのは「下 先生と遺書」の後半のKの自殺に関する部分です。

 

こんなところでしょうか。

 

異論反論、常時受け付けております。

 

おしまい