「人が何かを探求している時、探し求めているものしか見えないのはよくあることだ。

自分の求めているものについてだけ考え、

目的をもち、

その目的にとりつかれているため、

他のものを見つけることも吸収することもできない。

探求とは目的をもつことを意味するが、

発見とは自由になり、物事を受け入れる姿勢を持ち、

目的を持たないことを意味する。

あなたはおそらく、まったくの探求者なのだ。

自分の目的に向かって奮闘し、すぐ目の前にある多くのことは見えていないのだから」
(ゴータマ・シッダールタ)

私は自分について、思考に過ちを持っていたことに気がついた。

気づかなかったのが不思議なくらい不思議。

望むことと望まないことのバランスが崩れていた理由が見えた。


私の性別は女である。

男か女かのふたつの選択のうち、女として生まれてきた。

私の思考の過ちというのは、女であることに苦痛を感じ、“男だったらよかったのに”と思ったことが発端となり、それからいろいろなことでバランスを失った出来事が起こり出したように思う。

女でありながら女であるのが嫌だけど、理想の女を慕い、そして男になることに憧れる反面、男に反感を持っている。

望むことと、望まないこと。

選びたいことと、選びたくないこと。

そんなふたつのものがあって世の中はつくられていて、それで世の中はちょうどよくバランスがとれて宇宙が成り立っているのに、わたしの宇宙はバランスを崩していた。


これと似たようなことで、

人を好きになるのは、その人が夢中になって楽しんでやりたいことをやっていて、それで輝いて周囲の人は惹き付けられてその人のことを好きになるのだが、

周囲の人に好かれようとして好かれるようなことを選んで物事をやるのとでは全然ちがう。

好かれるのを目的としていたら自分の好きなことなどいつまでたってもできないし、それによって不満を持ち、自信を失い、人を妬み、人の幸せを喜べなくなる。


客観的にみると豊かさのなかにいて、たくさん捨てられるほど有り余るものを持っているのに、足りない、充分ではない、と不足の感情がついてまわる。

不安という感情の底には、欲求不満が隠されているのだといわれる。

あるのに足りないと思うのは、心から自分の望むものを手に入れていないからだけど、

心から望んでいるものをもうすでに手に入れているのに、ただそれにきづいていないことのほうが多いのかもしれない。


女であるのに、女になろうと奮闘しているようなものだ。


望むこと、
望まないこと、

そのどちらかひとつが気に入らないからと目をつぶったところで消えることなどなく、

常に両方存在しているけれど、どちらかを選ぶのが相対性のこの世。


ごめんなさい
許してください
ありがとう
愛してます

ラーチ/ウォルナット/ワイルドオート
個性って何だろうか?

個性なんてあるんだろうか?

大まかに〈こういうタイプ〉というのはあると思う。

わたしは今まで自分で自分の性格だと思っていたことが、実は、自己評価の低い人、うつの人、AC(アダルトチルドレン)の人の特徴的な症状だったことを知ったときは驚いたものだ。

自分の『性格』だと思っていたものが『症状』だったなんて思いもよらなかった。

ということは、わたしと同じ『症状』をもつ人が、たくさんいるということになる?

環境によってつくられた後天的な性格もあるだろうし、それ以前の先天的な性質のものを知りたいと思うのだけど、

どっからどこまでが先天的で、どっからどこまでが後天的なのやら。

自分の性格って?

自分に自分なんてあるんだろうか?


ひとくくりにされると『私はみんなと違うわ』と思うくせに、
みんなと一緒の価値観をもっていないと不安になる。

個性なんてほんとはないんじゃないのかと思う。

個性とは、人同士のなかにみつけるものなんかじゃなくて、人と人以外の生命との区別、分けられたものではないのかと思う。

自分で自分を認められている人は、個性、個性と騒ぐことはしないのではないかと思う。


自分はなぜこんなにまで生き方にこだわるんだろうか?

と考えたとき、

自分の生き方や自分自身に自信がないからなんだろうと思った。

いろんなことをやってみるのも自信がないからだし、考えてみるとそもそもこうなった一番の要因は、自信を持つための経験の繰り返しを子供時代に得られなかったことではないかと思う。

親から護られているという安心感から生まれる好奇心を持てず、
何かをしようとする意欲の起きない家庭環境であった。

いつも周囲は不安定であったから、私は常に不安感を持っていた。

そして私は家族から興味をもたれない存在であった。
親はわたしがなにをしようと無関心。

褒められることも、注意されることもない子どもは、『なにをしたって仕方がない』と思えてくるものだと思う。

なにも望まなくなる。
それは、なにも望まれなかったから。

生きることがつらくなる。
『生きていたって仕方がない、なにをやっても結局は死ぬだけだ。』

そんな無気力な心の状態が常になる。



今の私は人からみると自由そうでいて、実は全然、心が開けてなくて、自由ではない。

子供の頃に言いたいことを言えず、家族とコミュニケーションのとれない家庭で我慢が身についてしまい、それが当たり前の自然体になってしまって自分を表現することができなくなった。

自分の思ったこと、感じたことを、素直に表現しても、誰に対しても恐れることも不安になることも嫌われることを気にしなくてもいいんだ、と思えるようになることがわたしにはむずかしいこととなった。

だから、安心して平和を感じながら自分を表現できることが私には魅力あることで、そういうことに対して執着が強い。

そういったものを克服して、自分をしっかりと持ち、もっと現実的に人とコミュニケーションをとりたい…
と、思うのだが…。

私はやはりこれも子供時代のことからきているもので、お金に対しても執着がある。

生活していくこと、生きていくことに対して不安が大きい。

でもそれは他に依存しているからなんだともわかっている。

子供のときは親に依存しなければ生きていけないけれど、今の自分は自分で働いてお金を得ることもできるし、人と協力することもできる、ということはわかっている。

けれどどこかで依存していて、きっとまだまだ心のなかは傷ついた小さな子供のまま成長していない。

自立心を育ててもらえなかったのだ。

人の人生は子ども時代に大きく左右される。

生き方にかなりの影響力があるのだとつくづく感じる。

人が苦しむことになるクセをもつ原因は、子供時代にあるといっても過言ではないと思う。


自己表現は人と人を結ぶ大切な要素。

自己表現を怖れているうちは人との良いコミュニケーションをとることはできないだろう。

親の力を借りられず、こうした問題を克服することは容易なことではない。


こんな私のような人間はこの世にはたくさんいると思う。

健全な思考を持てる人間に子どもが育てられるなら、生きづらいと思う人間にはならなくてすむ。

今の世の中、健全な思考を持っている親となる人間が果たしてどれほどいるのだろう?