9月に秋田市へ引っ越して、10月末にパートの面接を受けました。
初めは美容室、身体を壊してから資格を取り直したり、勉強をして税理士事務所、補償コンサルタント会社の経理、経理システムの開発などに携わっていました。
娘が1年生で早く帰宅するので、午後の早い時間に自宅へ戻れるように、魚屋さんで、お寿司を握る仕事につきました。

日中でもマイナス10度。魚屋さんなので、床には氷が散らばっており、靴下を2枚重ねて、足用貼るホッカイロに長靴。その頃まだ、私もかなり痩せていたので、ポロシャツの下に服を4枚重ね着をして仕事をしました。

秋田市内は真冬、吹雪の中雷が鳴ったりします。朝方は近くの信号機などに落雷がしょっちゅう。眩しさと地響きで目が覚める事もよく、有りました。

徒歩10分程の通学にも、雪が多い年はスキーウェアーにゴーグルをつけての登校です。
太陽もあまり出ません。

食べ物は凄く美味しい土地でした。
それに関しては後日書きますね。

私は面接で、ダメ元で土日休みを希望しました。でも、採用されました。子供の事もあるので、上司からも休んで構わないという事でした。

ところが、一緒に働いていた人達にとってみれば、お店なのに、どうして土日休みなんだと思ったらしく、上司にでは無く、私に言ってきました。

私は、面接できちんと話して採用になったのになぁ。と思いつつ、申し訳ありませんと謝っていました。

ある朝、かなりの大雪が降りました。
朝3時からでしたが、慌てて車で出勤し、いつもの従業員用駐車場へ行きました。
序説にされていなく、車は動かなくなり、少しずつ、車体を動かしやっと脱出しました。
みんなは、どうしたんだろうか。。。

とりあえず、店の近くのお客様用駐車場に停め聞きにいきました。
すると、

前日に連絡網で駐車場移動の連絡をしたとの事でした。

私は飛ばされたのです。

かなり、ショックでした。

それから、次の仕事が見つかるまで3か月働きました。

お寿司の握り方や、ネタの鮮度の見分け方がわかるようになったので、自分的にプラスになった部分もありました。

ようやく、近所のコンビニで平日の8時~13時までのパートがみつかり、そちらで働くことになりました。

娘と私が病気になるまでの3年間弱ですが。。。

私が、土日休もうがご自分達は、休みは変わらないし、休みたいなら、何故面接の時に言わなかったのかなぁと思いましたが。人とは、そういうものかも知れませんね。
秋田市へ引っ越し、私も娘へも酷いイジメにあいました。

娘は当時、2学年位下の学年ほどの身長。11月生まれというのも、影響したのか、1年生でしたが、非常に幼く、でも活発な子でした。転校して、間も無くこんな事がありました。
担任の男性教諭~みんなに、クイズです。◯◯さんは、何歳でしょう?
答えは、うるさいです。

他の子に聞きました。
確かに、娘はおしゃべりであったろうとは思います。が、担任の先生がホームルームの時間にそんな事を言ったのです。
その事実を知ったのは、だいぶ後になってからでした。
私の実妹夫婦も小学校の教諭であり、親が学校に何かを言うのは、躊躇われ、黙って居ました。
ある日、その担任から電話がきました。
内容は、うちの娘が落ちていた手袋を側溝に捨てました。と、いう事でした。
驚いて、娘を連れて現場へ行きました。
側溝に捨てたのは、使い古しの軍手でした。
道路に落ちていた物を捨てたようです。
でも、側溝に捨てるのは、良くないので、外れない網の間から必死に菜箸を入れて取りました。もちろん、娘と一緒にです。

その後に、うるさい 事件を知ったのですが。何だかとても違和感を覚えました。
でも、我慢して居たら、春に担任が変わるかも。転校自体が9月だったので。

学年が変わると、その担任は小学校の教諭を辞めました。中学の教諭になったらしいです。次の担任に期待をしました。
また。。。
国語の授業中。音読で娘のイントネーションが可笑しいと、ちゃんと読めるまで、ずっと読み直しをさせられました。
正直、福島を経由して、転校したのでなまっていたかも知れません。しかし、主人はずっと話す仕事をしていましたし、いわゆる標準語でした。主人いわく、担任の先生がかなりなまっているらしかったです。
その地域のなまりに、直して話しなさいという事のようでした。
さすがに、主人も担任に抗議に行きました。
私は、そこまで言われても、学校に苦情を言うことに、抵抗がありました。
でも、今にして思えば、早く娘を護るべきでした。
すでに、娘は激しいイジメにあっていたのですから。
私は、実母に、いじめる人が可哀想な人なんだから、何を言われても我慢しなさい。と言われて育ちました。
娘にも、そう言って育ててしまいました。
とりあえず、自分が悪い事にして、謝ると。

何年か後には、
嫌なことは、嫌だとハッキリ言わないと。と考えが変わりましたが、その当時は、受け身な考え方でした。
本当に娘に、申しわけない事をしてしまったと思っています。
優しいと、何でも言いなりになる、とは違うという事を教えてあげられませんでした。
まして、一人っ子なので私の考え方の影響をモロに受けてしまったのかも知れません。

週末には、一週間の記憶が無いという事も起き始めました。
寒い地域なので、室内で遊ぶことが多く、福島の自宅のローンもあったので、日中働きに出て私が留守な我が家は同級生の溜まり場と化していました。
帰宅すると、お菓子が全滅。飲み物も。
グチャグチャに汚れていました。
娘に聞くと。断れないと。。。

じゃ、ママのせいにしていいから、ママが具合悪くて家では、遊べないって明日は断ってみて

翌日、帰宅すると綺麗でした。娘は、その頃から料理が好きだったので、自分でサラダのドレッシングを作ったりして、待っていました。少しホッとしました。

更に翌日は、運動会でした

その学校は、午前中のみ運動会で午後は給食という、何とも寂しい感じのする地域でした
父兄が参加する、奉仕活動なども一切無い地域でした。運動会も競争する競技は一つもありません。

私はもちろん、観に行きましたが、あまり父兄が居ない事に大変驚きました。イメージ的に、お弁当を持ち、シートを拡げてカメラを持って。。。だったので。

すると、娘のクラスメイトの女の子が近寄ってきました。
私を見つけると、ねぇ、◯◯ちゃんのお母さん。昨日具合悪いと聞いたよ。どうして今日観に来てるの?

あまりにビックリしてすぐに言葉が出ませんでした。

娘は、ひょっとしたら、かなり大変かもしれない。背筋が凍りつきました。

結局1年生の秋から4年生の終わりまで秋田市で過ごしました。

私も、娘も病気になり、すっかり元気を失って、逃げるように千葉に引っ越しました。主人は申し訳なかったのですが、2人でひっこしてしまいました。


何年前からだったのだろう。。。

気づいたら、常にどうやったら、死ねるかばかり考えていました。出来れば、楽に逝きたい。死後、賠償金など発生しないように。とか

ネットの検索履歴、自殺、楽、飛び降り、何錠。。。そんなのばかり入れてました。

結果的に現在、生きてます。
しかもかなり元気に。

自殺未遂小さいのは沢山ですが
薬の大量摂取1回
両肘の内側をカット1回
飛び降り1回

飛び降り後、大変な思いをしました。

少しずつ、経緯は書いていきたいとおもいます。読んで不快になる人は読まないでね。

ただ、その時はまともに考える事ができませんでした。

だって、まともじゃないから、そんなことしたり、考えたりしたのだから。

どんなに、命の大切さや、残された家族の話をされても、止まらないのです。

苦しかった。。。

今はきちんと、仕事もして、生活しています。

改めて、振り返ることができるようになりました。

生きていて良かった