”身のほど知らず”はその昔徳川家康が言った名言だが時代は代わって近代は物質の時代で既に生きる事に忠義より地位、名誉、名声、に人々は金と共に業の権力を追いかける。考えて見ればいくら平和を唱えても生き方が偽善の正義ではどうにもならず、既に人間の性質を知って恵みを与えて来た地球は最早時間が来た事に展開を示すが後は人間の覚醒と和解である。本来であれば人類は皆こぞって天に感謝をし、身も心も幸福でなければならないが歴史は人間にとって教訓にならず今や昔より堕落は人々の活力を増し人はその堕落に自ら正義として自分の行いの結果を哀れむ。むろん同意をもってこそ自分の存在を自ら確認するが皆その同意に涙する事に例えば社会時間に忙しい欲にとって心に忠義が働く代わりに異なるものとして社会ルールは暗黙の”相も変わらず”が浸透しており言って見れば人と人との間に日常において特に人間関係も絆は遠く、それよりも相も変わらずが唯一の忠義で心より自己満足、即ち納得が優先する。ただの納得感でそれぞれが確認をしこれをまともに人生と言ってる訳だがそれにしても人の思い込みはきつく、また自分しか理解できないことに気安く頷(うなず)くがこれも同意の一つで相も変わらずが自分の存在を表す喜んでいる。例えば今や恵まれない食に自分たちの暗黙のルールとして思い込みの安心感は生態系に危機感がないが、むろん身体もそうだが眼前における形態はテレビでも分かるように人間が語るより寧ろ堕落で”足りる”を覚えずで言って見ればこれも相も変わらずが求め合った同意で心を表しそれが鬼の宴でそれぞれが貪っていることがわかる。一方、同じ相も変わらずが宴のバーべキューだが発達時間に欲望の時間を優先するは要はそれだけ倫理を裏切った時間ではないが時に自分たちの人生時間を重ねて無発達は問題と時間の示す変化を作っているところ。しかもこれは自分たちの予定に如何に自我目的を優先するか、結局相も変わらずが我欲に決められており人生時間に心の純理の道理に抵抗してるは言うまでもない。一方、地球はルールとして自然界の法律が生きてるが最早倫理として下すことは即ち”脅威に惨劇”でありこれらの状況のなかで敢えて我欲にそれぞれが屈する事は惨劇は単なる結果ではなく人生を教訓しなければならず必要なのは天に対し真実の信仰を学ぶ事である。また心の強化として自分自身を守ることは人間生きる事に必要でこれを戯言と捕らえるならば寧ろ人は明日を分からず明日を失う事となる。必要なのは物質より自分自身の確かさが重要でこれは魂の叫びではないが人間すべてが互いに愛し愛され然も”寛容”がなければ如何に社会で成功しようが決して値はしない。寧ろ物質的には恵まれても精神的には社会に置いてる欲の”こだわり”が自分を苦しめてるが万物にあっては特に人間の性質は闇は蔓延り有ってあるもので人生何事も難しいは生まれた証である。