踏んだり蹴ったり秋から冬へ | moritaのブログ

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今年の秋は彼岸花もコスモスも菊もイチョウの黄葉をも見ることなく過ぎゆきます。


秋彼岸からずいぶん経ちましたが、祖先をうやまい、亡くなった人々を「しのぶ」季節としてはやはり秋が似つかわしいように思います。

だんだん齢を重ねてくると「しのぶ人」が増えてきて、これってなかなか負担になるものなのです。

さっさとこちらが「しのばれる人」になってしまえればなあ、なんて思うのです。

 

私はもともと胃腸が強くなく、歳のせいもありものを食べずに暮らすこともめずらしくなく、その日も水だけで暮らしていました。もう3日もものを食べていません。

水を飲みつつ、『ガツめし』なんていう雑誌で、2.3Kgのナポリタンや、高さ20cmのアメリカンクラブハウスサンドイッチの写真を眺めているのです。

お金がなくても宝石や高価なブランド品の案内を見てしまうのと同じで、矛盾はないのです。


そんな折り兄が死にました。

半年以上意識もなく病床に居た末のこと。

何の言葉を交わすこともなく「しのぶ人」となったのです。


歳が離れた兄は高校、大学、就職とも弟の私より一段凌駕していて、生まれたときから弟だった(あたりまえだ)私の生き様とちょっと違うな、といつも思っていたものです。

ガラスの天井だか鉄の天井だかわかりませんが、なんとなく重苦しい存在だったと思います。

 

兄弟にしろ違った関係にしろ現世的な優劣なり地位なりはあまりうれしいものではないのです。

8歳違いなので、私が産まれたときは兄は既に小学生。

私が小学校に入ったときはもう中学生。

中学校の頃は兄は大学生。

高校の頃は・・・・・ときりないのですが、兄弟としての「文化」や生活の共有はきわめて希薄だったのです。


いつも「上から目線」で相対する兄にはそれなりに逆らうことは意識的にしませんでした。

兄と弟の見えない区別。若い人にはわからないかもしれませんが。

けれど、亡くなってしまえば何も無くなってしまったのかな、経歴も地位も生い立ちも何も・・・・・

生きている人間と死んだ人間との区別。


兄嫁から電話があり、通夜葬儀の段取りを聞きました。

場所は世田谷の桜新町だそう。


通夜まで2日ほどあるので、今のうちにバイク自賠責保険の更新をしておこうと愛車ホンダスーパーカブを駆って代理店のバイク屋さんに行きました。

もう2年も乗っていないので燃料はカラッポ。

前はたくさんあったスタンドはずいぶん減ってしまって、ガス欠にならないうちになんとか近いセルフに入ります。

バッテリーも死んでしまっているので、ブレーキランプもウィンカーも点かない状態でバイク屋さんに着いたら休みでした。


しょうがないのでサンドラッグで洗剤や雑貨の買い物をし、すごすご帰宅し、バイク置場でスタンドを立てようとしたら腰に激痛が!!!!!


また来ました「ギックリ腰」です。

近くの縁石にしゃがみしばらく休み、なんとか歩けそうになったので部屋に戻りぐったりしていると姉から電話があり、通夜・葬儀の細かい日時、場所の連絡がありました。


なんとか行かなければなと思うのですが、通夜は無理かもしれないかも、と伝えます。

身体のどこの不調も大変なのですが、「ギックリ腰」はつらいですよ。

「ギックリ腰」を知らないという人は一度経験なさってください。

 


通夜の前日、一応行く前提で礼服や葬式グッズを準備し、少しものが食べられるようになったのでレンジでチンのごはんと「しらす干し」を少し食べてひと眠り。

夕方また姉から電話があり、

「遠いんだから泊っていったら」(実家、式場とも世田谷)。

「うんありがとう、千葉からは2時間だけれど慣れているし、通夜が遅くなったらお願いするから」、と葬式グッズリストに歯ブラシと歯磨きを追加するのでした。


兄が死んで2歳違いの姉と私だけになりました。

子供たちはそれぞれ独立して、今は夫婦2人だけの暮らしだと聞いています。


その夜は残った「しらす干し」を食べてリビングで寝ちゃいます。

1時間ほどで目が覚めて、ああ冷蔵庫に厚揚げの煮たのがあったっけ・・・・・と起き上がろうとしたのですが、あお向けの身体が動かせない。

ちょっと動かそうとすると腰に激痛が走ります。

七転八倒などといいますが、そんなのいいほうで、こちらは零転零倒から一転も一倒もできないのでありまする。

そろそろと身体の向きを変えつつ、しゃがみ体勢から立ち上がれる頃には朝になっていました。


こんな状態が何回か繰り返し、さすがに今日の通夜は無理だなと判断し兄嫁と姉に断わりの電話を入れました。



でも葬儀には行かないわけにいかないなあ。

スケジュールダブリの学芸大のライブはパス。


ヨタヨタと杖をつきながら電車を乗り継ぎなんとか式場へ到着。

昨夜、今日と一番忙しくて大変なはずの喪主である兄嫁がすごく心配してくれます。

今日の主役でもなんでもないのにかえって恐縮してしまいます。



出棺前、花を敷き飾るとき兄の顔を見つめました。

ずいぶん長く見つめていました。

いろいろな思いのフラッシュバックだったのでしょう。

 


斎場から戻り、精進落としはニ段重の和食料理。

刺身と天ぷらを少し食べ、なぜかごはんをぜんぶ食べたのですが、おいしそうな煮ものや焼きものは残してしまいました。

水と「しらす干し」しか食べていない身にとってはやや重めだったようです。


兄嫁も姉もしきりに泊っていったらと云ってくれる。

どうも東京西部の人間、特に世田谷人の奴らは千葉のことをとんでもないイナカ、辺境と認識しているらしい。

彼女らはアワビ、イセエビが獲れる外房やラッカセイ、サツマイモ畑が広がる北総とかとの区別ができないらしい。

私は30年以上普通に千葉から東京の会社に通勤してきたのですよ。


もうひとつの理由として、兄嫁も姉も子供たちがみんな別に住むようになって、それが「泊っていったら」の熱意になったと感じるのです。

きっと世間話しの相手にでもと思ったのでしょう。

そんなこと云われてもダメなのです。明日は大和姫呂未さんのイベントにエントリーしているのですから。

こんな黒服、黒ネクタイで香典返しのお茶詰め合わせをぶらさげて行けないでしょう、カメラも持っていないし。

 

で、帰ることにしたのです。まるで早いし当然田園都市線ほかを乗り継いで正しく帰るつもりだったのですが、次男がしきりにタクシーに乗って行けという。

だってここから千葉まで2万円くらいかかるでないの。

ノープロブレンだもし、お寺さんに渡すはずの「お車代」が余っちゃっているんだもし、もうタクシー呼んじゃっているんだもし。

とのことでタクシーで帰ることになりました。

料金19430円(迎車、高速代込み)。

降りてコンビニエンスで缶チューハイを買ったら「お車代」は全部なくなりました。

「お車代」には違いないのですが、こんな使いかたでよろしいのでしょうか。


翌日平服に着替えてイベント場所へ向かいます。
そのイベントというのは月島での野外撮影会。

待ち合わせ場所であるセブンイレブンが見当たらず、違うセブンイレブンの店に行ったりして(やたら店が多い)、やっとこ本来の場所に着くと、もう時間を過ぎているのに誰も居ない。

 

どうしたのだろう?

と、うろうろ、きょろきょろしていたら、事務所社長から電話があり、なにやらトラブルがあったらしい。

詳しくは申しあげられませんが、撮影会は空振りとなりすごすご帰路につきました、ああ腰が痛い。


その後2回ほど撮影会がありましたが、またまたの撮影会は兄の四十九日にダブってしまい予約をキャンセルすることに。

たぶん空いた枠にはすぐ別の人がすべり込んだようですが、参加費に加え私のキャンセル料とで事務所的にはよい儲け話になったことでしょう。



法事のお寺は、morita本家一族が散在する埼玉県。腰も痛いし車ではなく東武鉄道のローカル線の某駅から歩いて行きました。







父の実家の前の道は、神社の祭りや1軒だけあった「よろずや」に懐中電灯で足元を照らして行ったり、野辺の送りとかで歩いた道。もう50年くらいかな。

今やなんの変哲もない舗装道路ですが、「青大将」が横断しているような道だったのです。


本堂での読経、墓参りを済まして、うなぎが有名な料理屋「大穀」へ。


幸福に料理を頂き、幸せに茶碗蒸しを頂き、幸福にビールを飲んでいるうちに父母の供養をどうするかという話しに流れていきました。

姉は嫁いで家を出た立場、私は傍流で承継が居ないし、あとは本流の兄の3人の甥たちとなるのですが、彼らからは祖父、祖母は縁が離れているので位牌の扱いや回忌法要をどうするかとか、イマイチ実感に欠けるところのようです。


かなりの議論になりましたが、とりあえず相続の経緯なんたらを共通理解するべえ、年明けにまた会おうべえ、ということになりました。

ただ、兄一家、姉一家、それに私とが参集したこんな話し合いの機会は初めてだろうと思います。

あまり交流はなかったけれど、兄方、姉方の甥6人はほとんど30歳代。

今日のところまとまりつきませんでしたが、それぞれしっかり意見を述べるようになったのですね。


その意味では有効でよい活力だったのですが、相続やら法事やらにまた係わっていかなければならないのは憂鬱です。

来年は父の二十三回忌になります。

まだ決めたわけではありませんが、弟の私が施主をやらないといけないかも。憂鬱その2。


やってきた「うな重」を皆無心にほおばり、ビールもたくさん飲みました。

ここのうなぎは蒸したて、焼きたてでいつもうまいのです。



急行停車駅まで車で送ってもらい、東京経由千葉へと帰ったのであります。


あいかわらず腰が痛く、これを書いているときも痛くて集中力をもてません。

痛めてからもう2か月半になりますか。

なんといっても健康が大切ですね、生きているうちは。


けれど生は永久ではありませんし、死んじゃうと多かれ少なかれ回りに悩みを残します。必ず残します。


前々から気にはなっていたのですが、本当に「終活」をせねばならないのかな。

不動産、銀行預金、生命保険(ああまだ受取人名義変えていないな)、自動車のこと、その他諸々。

なんとなく間口を拡げちらかし放題の暮らしは、また「方丈」に帰するべきなのかもしれません。


幸い欲しい物はほとんどなくなりました。できればエアコン、冷蔵庫、洗濯機、湯沸かし器のたぐいが壊れないことを祈るばかりです。



朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生(うま)るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける・・・・・なのかな?