歴史は未来を教えてくれます!歴史は暗記するものではなく、理解するものです。歴史は過去の成功と失敗を教えてくれます。歴史は未来へのヒントや示唆を与えてくれます。歴史は人類の叡智の宝庫でもあります。歴史への興味を持ってもらえたら幸いです。

 

✪歴史から得た

貴重な「法則」と「羅針盤」✪

 

歴史の魅力

 

世界史、日本史、ありとあらゆる歴史書を片っ端から読み漁りました。小学5年から学校の先生の授業が面白くて、興味をもったのがきっかけです。歴史のどこが面白いのか。歴史には、自分では一生かけても体験できない情報がうなるように詰まっているからです。命懸けのストーリーがあります。極限状態のストーリーがあります。繁栄のストーリーがあります。衰亡のストーリーがあります。誕生のストーリーがあります。

人生と同じで始まりと終わりが歴史にはあります。しかし、人生と異なる点は、終わりと始まりが重なり合っているところです。終わろうとする歴史と始まろうとする歴史が重なり合っているのです。歴史の転換点ともいいます。古代から中世、中世からルネサンス、ルネサンスから近世、近世から近代、近代から現代へと連綿とした繋がりがあり、転換点では歴史のダイナミックなぶつかり合いがあります。

 

 

 

歴史の本当の価値とは

 

歴史の真実は一つなのですが、その真実はその歴史に携わった当人しか知らないというのが現実です。その当人すら、ことの詳細までは知らないことが普通です。歴史を読むとき、そこに書かれていることは真実らしきことというのが本当のところです。その真実らしきところが作為的に偽られて書かれていることもあります。そういうところを意識しながら、幾つもの歴史書や一次史料と呼ばれるものを確かめながら、真実に近いところを探り出すというのが好きなところです。

 

 

その探す過程で様々な情報に遭遇します。ブランド情報とわたしが名付けている情報です。もっとも信頼のおける価値ある情報のことです。つい最近ブログで書いたこともあるこの一文もブランド情報の一つです。

「戦争とは政治の延長であり、外交の失敗の結果である」

数か月前に危うく、この言葉が現実化する可能性がありました。トップがお互い安楽椅子から離れて、最前線でお互いが話し合うことで、ギリギリのラインで一線を超えることなく現在を迎えています。

まさにあの数か月前に展開されていた状況が上の言葉です。歴史にはこうした貴重なブランド情報がうなるように埋もれています。これが英知というものです。英知は掛け合わせると知見になります。わたしが新しい情報とか、流れに乗り遅れるなという話にまったく興味を示さないのは、英知のほうがよほど価値があるからです。

ブランド情報には、歴史と信頼の証があります。なぜなら、数千年から数百年という単位で検証されてきた情報だからです。歴史に淘汰されず価値ある情報として現代まで存在するものです。

一方、新しい情報というのは、まだ歴史の審判を受けていません。価値があるのかないか不明なまま、グレーゾーン、推定無罪の情報です。数千億単位の歴史の情報の一番後ろに位置する情報です。そして、その新しい情報は、ほとんど生き残ることなく歴史に淘汰されていきます。つまり、価値のない情報として忘却の彼方に消えていくものです。

というわけで、わたしは論語にある「温故而知新」という言葉がとても好きです。まだ、その言葉に続く「可以為師矣」には、まだ至っていませんが…

ブランド情報の中にこそ、未来に役立つ価値ある情報があります。わたしは歴史から発掘したブランド情報から多くを学び、それを応用し、知見としてさまざまな局面で活用しています。わたしは、このブログでブランド情報の実験をしています。局面ごとに、どの情報を使えばいいのか、組み合わせればいいのか、この手探り感覚がとても面白いです。

歴史は、現在、未来に役立ててこそ価値のあるモノになります。その価値を知り、自分の人生に生かし、体験と掛け合わせて化学反応を起こさせることがとても大好きです。

古代ローマ史は、わたしの最も好きな歴史です。人類の英知がここに物凄い量で埋蔵されています。

 

 

 

「歴史の抗えない法則」とは

 

ところで、歴史から検証された『抗えない法則』が存在するのですが、ご存知でしょうか。実は、わたしが考えた言葉です。人類史で検証されてきた人間の行動に対する法則です。人間の行動はテクノロジーが進歩しようと、変わることはありません。寝る、食べる、学ぶ、遊ぶ、喜怒哀楽など時代は変われど、不変のものです。

人間の行動に対して、あらゆる結果を導くことができます。例えば、キノコを食用と非食用とに見分けるためには、人類は命懸けの試行錯誤を行いました。その結果、実際に食べて、身体に異常が起きなかったものが食用になり、命を落としたものは非食用となったわけです。その過程で食用になるキノコと非食用のキノコの法則性が見出されました。これも一つの「抗えない法則」です。

人類史において、人間は様々な成功と失敗を繰り返してきました。その結果、成功パターンと失敗パターンというものが法則として見出されます。ビジネスの世界において、彗星のごとく現れ、瞬く間に急成長を遂げ、市場を席巻する企業が登場することがあります。みなさんの頭の中にも、そういう企業がいくつかイメージできるのではないでしょうか。

これを歴史からの「抗えない法則」で見ると、その行き着く先が分かります。歴史からの3つの事例を挙げて検証します。古い順から一つは、アレクサンドロス3世の帝国です。アレクサンダー大王と言ったほうが分かりやすいでしょうか。次は日本の武将、織田信長。最後は、フランス皇帝ナポレオンです。この3人に共通することは、一代で急成長を遂げたということです。

アレクサンダー大王は現代のギリシャ、トルコ、エジプト、シリア、イスラエル、エジプト、イラク、イラン、バングラデシュまでの広大な地域を僅か10年ほどで征服し、一代で大帝国を築き上げました。とはいえ、若くして亡くなると、大帝国は瞬く間に空中分解し、崩壊しました。

織田信長は戦国時代末期に登場し、近畿、東海、甲信地方を手中に収め、戦乱の世を終わらせ、天下統一をするかと思わせるほどの勢力拡大を一代で成し遂げました。しかし、中国地方を攻略途中に、明智光秀の謀反にあい、いわゆる本能寺の変にて自刃。織田家は没落することになります。

ナポレオンは一軍人から身を起こし、フランス皇帝に自ら即位し、ヨーロッパを一代で征服しました。さらにロシアを征服しようと、グランダルメ(大陸軍)60万人を率い、侵攻するも、兵站に失敗し、撤退を余儀なくされました。結果、97%の将兵を失い、それがきっかけとなり、各地で反乱が起こり、ナポレオンは帝位を追われ、追放され、ここにナポレオン帝国は滅亡しました。

いずれも、一代で急成長した帝国であり、勢力です。織田信長は別として、ほかの2人の規模は桁違いの急成長です。世界を席巻しました。とはいえ、いずれも10年から30年の間で衰滅しました。つまり、ここで言えることは、「急成長した組織は短期で滅びる」ということです。これが『抗えない法則』です。73年前にも、同じことが起きています。第三帝国といわれたドイツであり、大日本帝国、この2つも急成長を遂げますが、滅亡しています。これも『抗えない法則』です。

歴史に検証された抗えない法則は、この急成長が短期滅亡を招く、根拠をきわめてシンプルに説明します。基盤が成長に追いつかないということです。基礎工事が完成していないにもかかわらず、超高層ビルを建ててしまうために、土台が崩れ、倒壊してしまうということです。

この『抗えない法則』を知ることで、わたしは物事を表面で見るのではなく、内部の構造、とりわけ基礎部分に常に着目します。企業や人物を評価するにあたり、一番重視する項目は基礎です。企業や人物の持つ基礎が盤石であるか、否かが、あらゆる判断基準となります。

わたしが「行動を急がない」、「自分のペースを大切に」、「タイミングは自分で決めること」を常に言い続けている理由は、この「抗えない法則」を知っているからです。そして、この法則を逸脱した場合の悲劇を、あまた見てきたからです。悲劇で済めばまだいいほうです。惨劇になることもあります。

 

 

 

「本当の歴史」と

「偽りの歴史」

 

歴史でとても大事なことを一つ話します。「新しい時代をつくる」とか、「新しい時代を切り開く」という言葉を聞くことがよくあります。これは「歴史に抗う最も危険な言葉」です。なぜでしょう。「時代」は個人や特定の集団がつくるものではないからです。時代は「歴史の審判によって決定されるもの」です。

冷静に考えてみましょう。平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代、いずれも個人や特定の集団が作ったものではありません。歴史の審判によって定められたものです。平安時代のだれ、かれや特定の集団が「平安時代」をつくり、名付けたわけではありません。後世になって、歴史家たちが審判を下し、名付けたものです。

「新しい時代をつくる」「新しい時代を切り開く」ことは、机上の空論です。夢を個人で抱いている分には構いませんが、それを標榜する者がいるとすれば、歴史に対する背信行為です。法律用語でいえば、「背信的悪意者」ということになります。もし、上の2つの言葉を表現する者が何か行為をしたとすれば、法律的に言えば当然、無効です。当然、歴史においても無効です。

源頼朝が「新しい時代を切り開く」と言って、「鎌倉幕府を開く」と宣言し、「これからは鎌倉時代と呼ぶ」と言って、鎌倉時代になったでしょうか。あるいは織田信長が「新しい時代をつくる」と言って、自ら「これからは安土桃山時代と呼ぶ」と宣言し、安土桃山時代となったでしょうか。いずれの答えも否です。どの史料を読んでもそんな文言は存在しません。後世になって、歴史の審判によって定められたものです。

もっと正確に言うと、源頼朝が生きていたころは古代から中世への過渡期の時代であり、徳川家康が生きていたころは近世が定まってきた時代です。歴史上の人物が時代をつくったように見えますが、実際は、その時代を象徴していた人物であるにすぎないのです。頼朝や家康は、歴史の流れを巧みに泳いだ人物ということができます。織田信長は、歴史の流れに溺れた人物ということができます。

こういう人物たちのことを「歴史(時代)の申し子」と表現します。歴史が先に存在し、そこに歴史的人物が偶然生まれたということです。

歴史とは、川の流れと同じです。歴史は当時もしくは、現在を生きる個々の人々が営む行為の積み重ねによって生み出されるものです。それが世代というつながりで流れていくわけです。川の流れは一定ではありません。急流や激流があったりします。穏やかな流れもあります。前者のとき、時代が変わっていくときです。後者のときは時代が継続していくときです。

何々時代というのは歴史の区切りの方便であって、歴史とともに表現が変わっていきます。今のことを現代と呼びます。何々時代とは呼びません。まだ歴史の審判が下されていないからです。現代を何時代と呼ぶかは、まだ数百年先のことです。

 

 

「新しい時代はつくったり、切り開くことはできない。現代しか存在しない。」

 

つまり、「本当の歴史」とは現代の積み重ねということです。現代が積み重ねられ、過去となった現代のことを後世、「〇〇時代」と呼ぶわけです。

 

 

「新しい時代をつくる」「新しい時代を切り開く」という言葉を使う者は、歴史に抗おうとする者か、歴史を偽ろうとする者です。それが『歴史の抗えない法則』です。その結果も、『歴史の抗えない法則』から導かられています。混乱と混迷です。「新しい時代をつくる」「新しい時代を切り開く」と自ら語って、新しい時代を築いた人物は誰一人として存在しません。「時代」は、歴史の審判で定められるものです。

 

言い換えると、「新しい時代をつくる」「新しい時代を切り開く」とは、「偽りの歴史」ということです。

 

 

注釈:ここであらゆるところで、間違った解釈をしていることがあります。日本に限ったことです。明治、大正、昭和、平成を「時代」と呼ぶことです。マスコミを含め多くが「平成の時代」と呼んでいますが、これは大きな誤りです。正確には「平成の御世」です。時代ではありません。「明治時代」も「明治の御世」です。つまり「明治天皇の御治世」という意味です。天皇の治められた年数のことです。在位年数のことです。政令では「元号」と呼ばれています。「時代」とは書かれていません。

 

 

 

「わたしたちの使命」

 

では、わたしたちは、歴史に何ができるのか。これは、とても簡単なことです。「一生懸命、生きること」です。今は評価されないことでも、「どんな小さなことでも成し遂げること」です。この一人ひとりの積み重ねと営みが、歴史を築き上げていくのです。

積み重ねの上に、突然変異が起きることがあります。それが「発明」と呼ばれるものです。「歴史的発見」と呼ばれるものです。発明家は、ひとりの力で発明を成し遂げたわけではありません。先人たちの英知の上に発明が生まれます。「技術革新」も同じことです。


「歴史は、無名の一人ひとりの成し遂げたことの積み重ねと営みによって築かれる」

 

わたしたち一人ひとりの生きる意味とは、一生懸命生きることです。その一人ひとりの小さな積み重ねが、結果として未来を創る原動力になります。よりよい未来か最悪の未来か、それはわたしたち一人ひとりの行動や生き方にかかっています。



あと「新しい国づくり」という話がありますが、もう十年近く聞いていますが、どんどん古い国になっています。新しい国とは「新たに独立した国」のことです。これは国際政治で常識のことです。

 

 

 

わたしが歴史から得たもの

 

テクノロジーがいかに進化しようとも、人間が物事を動かしている限り、『歴史に検証された抗えない法則』に例外はありません。この法則を知るには、歴史に学ぶしかありません。だからこそ、歴史は学ぶ価値のあるモノだと言えます。『抗えない法則』は、ほかにもたくさんあります。ときおり、こうしたことも今後、ブログで取り上げていきます。歴史は文学として捉えられがちですが、科学として捉えるものです。歴史はわたしたちに未来を教えてくれます。歴史は未来に活かすものです。


わたしの持つ羅針盤は、『歴史に検証された抗えない法則』です。

 

 

 

あなたの名が

歴史に名が残るかも?

 

このコーナーの最後に、みなさんも歴史に残る可能性があるという話をします。とりわけ、現代において、すべてが「小さい賢い電信機」において処理されています。「ノート」や「手帳」といったアナログ的な文具を使っているみなさんには、とりわけ可能性大です。そこにみなさんが書いた情報が歴史に残るかもしれません。そう思ってリアルな文具を使って、文章を綴ってみると面白いです。タイトルに凝ってみると、価値が上がるカモです。

歴史家は、といっても色々な歴史の専門家がいますから、ここは文化史に絞ります。文化史の歴史家は、何に一番興味を示すと思いますか?意外かもしれませんが、感情的側面、本音の部分、あからさまな事実、日常、それから何を食べていたかも重要なことです。

歴史家は様々な一次史料から当時の様子や有様を再現します。そこで必要なことは、それぞれの人が当時、どんなことが起こっていたのか、どのようなことを考えていたのか、感じていたのか、何をしていたのかというところに興味を抱きます。歴史家はそういう断片的な情報をあちらこちらから寄せ集め、当時はこういう時代だったと真実に近いことを書くわけです。

数百年後、みなさんの書いた「ノート」や「手帳」が第一級の史料になっているかもしれません。歴史って面白いです。

 

 

あとがき

 

実は、これはかつて、わたしのプロフィール欄に載せていた一文です。消してしまうには、もったいない。そこで、少し手を加えて、ひとつの記事として、新しい記事としてではなく、こっそりと、過去の記事の中に置くことにしました。

 

この一文を読んでくださったみなさんは、興味を持ってくださったからだと思います。ありがとうございます。

 

 

少しでも、みなさんにとって、歴史が身近なものとなり、歴史に興味や関心をもつきっかけとなれば、幸いです。

 

 

長文をおよみくださり、ありがとうございます。


2019年1月10日

島田智史

 

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