今日とある人と話をしたなかで、宗教というコミュニティの話をしました。
このblogに一応頭の整理として書き残しておきます。

その人からは某コミュニティに所属しないかと言われました。説明だけでもと。
俺はその人に対し、是正も否定もしたくなかったので、自分の気持ちと立場を分かって欲しくて、宗教というコミュニティは否定できないとの旨を話しました。
説明が下手なのに加えて面食らったような状況でしたので、理解はしてもらえなかったとは思います。


宗教ってのは一般的にだいたいどの家庭でも所属しているコミュニティです。
中には煙たがられる宗教宗派もあります。
しかしどんな宗教宗派でも信仰している人にとっては大切なコミュニティで、心の拠り所です。

宗教に限らず、町内の自治会でも田舎の青年部でもコミュニティという意義では同等のものだと思います。
やっぱり幸せに楽しく暮らそうと思うと宗教であれなんであれコミュニティの存在は不可欠ですから。
どの様なコミュニティであっても私は是正的に捉えています。

ただ、世間体という枠の中で、どのコミュニティに所属できるのかが重要です。

某宗教では「入信している人がこんなに沢山いる」と、
某商業団体では「みんなやってる。知らないのは勿体ない。」
などと広義の世間体の話をします。
 
しかし個人は狭義の世間体の中で生きています。親、兄弟、同居人、配偶者、子供などの狭い世間を抱えて生きています。
個人個人が抱える狭義の世間体の中で、
いかに普通の世間体を保てるコミュニティに所属できるのかは生きていく中で重要な課題となります。

例えば街の人に青年部に加入しているとの話をすると、
「田舎は大変だな」とか「都会に住めばそんなの入らなくていいのに」とか散々なことを言われます。
しかし、田舎の集落で暮らしている者にとっては青年部というコミュニティに加入することは世間体としてプラスに働く重要なことなのです。

逆に田舎の人が痛車あるいは改造車のコミュニティに入った場合はどうでしょう?
当然車をいじることで冷たい目で見られることになります。
「あんた!車をあんなにして!近所のいい笑い者じゃない!」といった叱咤を受けることにもなりかねません。
車をシャコ短のレクサスにしただけで奇異な目で見られてしまうのが田舎ですからね。若い人がそれをするなら受け入れられることもあるでしょうけど、
基本的にはNGなコミュニティです。

これがテニスサークルというコミュニティであった場合は、「健康的でいいね」と街の人であっても田舎の人であっても是正的に捉えらえてもらえるでしょう。


個人にとってコミュニティは自分を自分としていられる大事な場所です。
でも個人に課せられている、抱えている世間体はもっと大事なのです。
そのバランスをいかに取れるか。
そして狭義の世間体の中で生きていくことは、自分の思いを犠牲にしてでもしていかなくてはならないことです。
これが平和に世間体良く生きていくためには最重要課題です。


「俺がしたいようにさせろ」で通る世間なら日本(でなくても福井)はもっと発展してそうですけどね、残念ながらそうではない。
世間は狭義の世間体から外れる存在は奇異として排除する、
改めさせようと狭義の世間体になれと強要してくる、そんな世の中です。

残念ながら私はその中でもがけるほど貫けるほど強くはない。むしろ弱い。
そして排除もしくは強要してきた側でもある。
だからその某コミュニティには加入できないなと。

あと、こういった勧誘的なことに直面して思ったのは
今、自分に必要なことは、自分に必要だと思えるコミュニティに所属することだけ
 
 
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読み直したらわけわからん箇所がいくつかあったので修正しました。