メモ 改宗をめぐるもの | 聖書 書置き板

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聖書を読む人のメモ置き兼ブログ

万一役立ちそうな事があれば、
イエス様を通して父である神にお礼を言っておいてください。

※追記をよくするのでそれはご容赦ください

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一部引用

ユダヤ教世界のイエス伝
―ストラスブール写本版『トルドート・イェシュ』とその文脈についての研究―
志田 雅宏

(略)

このキリスト教側からのユダヤ人理解に対して,ユダヤ人たちはしばしば対抗的な姿勢
を示した。その表現手段は,宗教論争の文学や聖書の註解,祈祷書や説教,極端な場合には
自死としての殉教にも及んだ。これらの対抗的表現には,彼らがキリスト教文化から影響を
受けて形成したものも少なくない。ユダヤ人はキリスト教世界の住人および言説の一部と
して,キリスト教に対峙する自分たちのアイデンティティを構築していったのである(4)。
そして,この対抗的な表現として近年注目されているのが民間伝承である。ユダヤ教世界
には,福音書や聖人伝などのキリスト教文学のイエス物語とはまったく異なる,ユダヤ人た
ちの語るイエス伝が存在した。それが『トルドート・イェシュ』(Toledot Yeshu)である(5)。
『トルドート・イェシュ』はそれ自体が多様な伝承であるが,本稿では中世西欧で流布した
ストラスブール写本版を紹介し,考察する。

2.『トルドート・イェシュ』とは何か
まず,『トルドート・イェシュ』の概要を紹介しよう。ユダヤ人のイエス伝承の存在は,
2 世紀後半以降のテルトゥリアヌス『見世物について』(De Spectaculis)やオリゲネス『ケ
ルソス駁論』(Contra Celsus)といった教父文学において確かめられる。つまり,1 世紀末
の福音書成立の直後には,ユダヤ人たちはイエスのアナザー・ストーリーを創り出していた
のである。

(略)

後述するように,この「対抗物語」(counternarrative)として
の「反福音書」(anti-Gospel)という性格は,タルムードのイエス伝承と『トルドート・イ
ェシュ』に共通する特徴であり,事実として後者にはタルムードと共通のエピソードやモチ
ーフも多数登場する。しかし,両者には明確な違いもある。タルムードのイエス物語が断片
化しているのに対し,『トルドート・イェシュ』のそれは完結していることである。

(略)

西欧世界で『トルドート・イェシュ』の存在がキリスト教神学者に認知されたのは,初期
教父の時代からだいぶ後のことである。確認されるかぎり,9 世紀にリヨンの司教アゴバル
ドゥスとアムーロが,ユダヤ人の迷信としてこの文書に言及したことをその嚆矢とする(7)。
そして,西欧で最も広く伝播したストラスブール写本版の登場は,それからさらに数百年後
である

(略)

『トルドート・イェシュ』では,イエスについて侮蔑的な描写や,キリスト教的なイエス
理解の転覆が見られるが,これらは福音書(「敵対者が最も信頼する資料」)の語りなおしと
いう方法でおこなわれる。イエスの誕生から死と復活までの物語は,福音書のそれを利用す
る仕方で展開されてゆくのである。フンケンシュタインやD・ビアールはその方法を「対抗
歴史」と名づけ,『トルドート・イェシュ』の最大の特徴であると同時に(21),ユダヤ史にお
ける古代から現代までの全般的な特徴とみなす。


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中世ユダヤ教民間伝承におけるキリスト教世界への対抗物語
   改宗を語ることをめぐって
志 田 雅 宏


 中世キリスト教世界のユダヤ教文学では、キリスト教文化に対抗する言説がみられる。
本論文では、そのなかで中世ユダヤ教の民間伝承に注目する。
まず、『トルドート・イェシュ』というユダヤ版イエス伝では、
「神の名前の使い手」としてのイエスの姿が描かれる。
その物語は、福音書のイエス物語を題材とし、メシアとしてのイエスというキリスト教正典における
描写を転覆させることによって、イエスをラビ・ユダヤ教の規範を逸脱する魔術師として語りなおすものである。

(略)

 キリスト教世界に対するユダヤ教の対抗物語は長い伝統を持つ。
ラビ・ユダヤ教の教典であるバビロニア・タルムードにはいくつかのイエス伝承がみられるが、ペーター・シェーファーはこれらを「福音書におけるイエスの生涯と死の物語に正対する物語、注意深く考慮された極めて洗練された対抗物語」と説明する。バビロニアのユダヤ賢者によるイエス描写は、新約聖書のイエス物語を題材に、処女懐胎やイエスの神性およびメシア性をパロディ化する手法をその特徴とする。それは、イエスについてのキリスト教の教義を批判するためだけでなく、ユダヤ法で死罪に相当する「偶像崇拝者」としてのイエスが処刑されることは正当であったと主張するためでもあった

(略)

 中世ユダヤ教世界で最も広く知られたイエス物語に『トルドート・イェシュ』(「イエスの生涯」)がある。
成立の年代(三〜五世紀)や地域(パレスチナかバビロニアか)については諸説あるが、このユダヤ版イエス伝はユダヤ民衆の「迷信」としてリヨンの大司教アゴバルドゥス(九世紀)が言及して以来、キリスト教徒の論争家や神学
者たちのあいだでもしばしば注目を集めた。『トルドート・イェシュ』には、イエスがパンデラというローマ兵士
と母マリアとの不義によって生まれた私生児であったとか、イエスは当時のユダヤ教指導者に反抗的な魔術師であ
ったといった、タルムードで描かれる反福音書的性格の顕著なイエス像が取り込まれている。
その一方で、タルム
ードにはない独自の新要素も加えられている。

 『トルドート・イェシュ』における福音書の転覆的な読みとパロディ化は、たとえばイエスの復活の「真相」に
見ることができる。磔刑に処せられ、息絶えたイエスの遺体は、「死体を木に吊るしたままにしてはならない」
(申二一23)という律法の規定にしたがって、つまりユダヤ法の正当な手続きによって埋められる。すると、ただちにイエスの信奉者たちが彼を裁いたユダヤ賢者たちのもとにやってきて、墓を開けろと要求する。そして、驚くべき
(?)事態が明るみに出る。確かに埋めたはずのイエスの遺体が消えていたのである。当時、エルサレムはある女王
が支配していたが、彼女は事態を聞きつけるとユダヤ賢者を呼び出し、イエスの遺体を発見できなければメシア殺
しの罪でユダヤ人たちを皆殺しにすると脅す。賢者は懸命に遺体を捜すが、どうしても見つけることができない。
ユダヤ人たちはイエスの信奉者たちに襲われることを怖れ、各地を転々とする。そして、女王が捜索のために設け
た期間の終わりが来てしまう。自分たちが皆殺しにされると確信し、途方に暮れた賢者は野に出て涙を流す。する
とそこに、自宅に広い庭を持つひとりのユダヤ人がひょっこり現れる。そして、賢者から嘆きの理由を聞かされた
その庭の主は事も無げにこう言う。「今日こそ、イスラエルに安らぎと喜びがあらんことを。なぜなら、私が彼を
盗み出したのだから。あの悪党たちが彼を連れ出さないようにするためだ。そして、彼らが世々にわたって口を開
くことがないように」(TYLSJ II, p. 92)││。

 イエスの遺体が消えた「真相」とは、ユダヤ人の庭の主がそれを運び出したというものだったのである。これは
福音書のイエス復活の物語のパロディであり、同時に福音書に対する「悪意的な」解釈でもある。なぜなら、福音
書ではイエスの弟子たちが遺体を盗み出し、「イエスは復活した」と民衆に言いふらすことを祭司長とファリサイ
派の人々が懸念し、総督ピラトに頼んで番兵にイエスの墓を三日間見守らせた、と書かれているからである(マタ
二七62―66)。庭の主の言葉は、明らかにこの福音書の記述を念頭に置いたものである。だが、彼は墓を見張るので
はなかった。それどころか、イエスの信奉者たちに先回りして遺体を運び出し、「復活」を偽装してみせるのであ
る。

また、『トルドート・イェシュ』には、タルムードのイエス伝承にはなかった、中世のユダヤ民衆にとってポピ
ュラーなモチーフも含まれている。本論文冒頭の「血の中傷」の物語に出てきた「ひとつの名前」である。この
「名前」とは神の名前のことであり、具体的にはヘブライ語で「シェム・ハ-メフォラシュ」と表現される聖四文字
の神名(テトラグラマトン、YHWH。日本語では「ヤハウェ」と表記される)をさす。中世の民衆世界では、ユ
ダヤ教神秘主義(カバラー)とは、その主流をなす神智学的な思索や秘義的な聖書解釈よりも、神の名前を唱える
方法を習得し、それによって奇跡/魔術を起こすという秘匿的な知恵の実践としてイメージされていた。後で見る
カタルーニャの偉大な指導者にしてカバラー(ただし神智学的思索や秘義的聖書解釈としてのカバラー)の学者で
あったナフマニデスも、それどころかアリストテレス主義哲学の完成者であるマイモニデスも、彼らの知的言説に
触れることのない民衆の目には「神の名前の使い手」として映ったのである。


 『トルドート・イェシュ』では、イエスがこの「神の名前の使い手」として描かれる。イエスを魔術師とする描
写はタルムードにもあるが、その力の源泉を神の名前に見出すのは『トルドート・イェシュ』ならではの特徴であ
る。この民間伝承の世界では、聖なる神名はエルサレムの神殿の最奥部にある礎石に刻みつけられている。その礎
石はヤコブが天への梯子の夢を見たときに枕にしていた石であったという。この石に刻まれた神の名前を「学ぶ」
具体的にはその発音を習得することを意味する者は、自分の望むすべてをおこなうことができる。そのため、力の悪用を恐れたユダヤ賢者たちは、神殿の出口に結界を張ることにした。彼らは柱に銅製の犬を吊るしておいた。内部に侵入して神名を学んだ者が外に出ようとすると、この犬が吠え、その瞬間にその者は自分が学んだことを忘れてしまうようにしたのである。しかし、イエスはこの賢者たちの結界を狡猾な仕方で突破する。イエスは神殿に入り込んで神名を学ぶと、その場で即座にそれを唱えてから、自分の腿をナイフで裂き││神名の力のおかげで、その深い傷にも痛みを感じない││、腿の内側に神名を記した羊皮紙をしまい込んでから再び神名を唱えて傷を治し、神殿の出口に向かう。すると結界が作動し、彼は犬に吠えられて記憶を失うが、忘れさせられるのは神名を「学んだ」ことだけであり、紙を体内にしまったことは忘れなかった。そして、帰宅後再び腿を裂き(このときだけは激痛に苦しんだだろう)、紙を取り出してまんまとその習得に成功するのである(TYLSJ II, pp. 84-85)。

『トルドート・イェシュ』では、福音書におけるイエスの病の治癒や死者の復活は、まさにこの神名の力によるも
のだと語られる。イエスが盗み出した神名とは、血の中傷の話における神名に他ならない。それは本質的には神聖
で、誰でもその超自然的な力を引き出せるが、イエスはユダヤ賢者たちが作った結界を破ってそれを「悪用」し
た。神の名前の魔術師としてのイエス像は、彼がユダヤ教の規範に反抗する者、ゆえにユダヤ教の法によって死刑
に処されるにふさわしい悪人であったことを強調するものである。そして、そのイメージは福音書のイエス物語を
利用し、転覆させたイエスのアナザー・ストーリーにおいて形成されるのである。

 

三 エリヤフとシモン・ケファ ││ 改宗するユダヤ賢者 ││
 さて、『トルドート・イェシュ』のいくつかの写本には、イエスだけでなくその弟子たちの物語も収録されてい
る。
その弟子とはエリヤフとシモン・ケファである。彼らはいったい何者なのか。まずはそのストーリーを紹介し
よう。

 
(略)

 

 こうしたイエスの弟子たちの物語は、新約聖書の記述の字義的な検討は言うまでもなく、タルムードおよび『ト
ルドート・イェシュ』のイエス伝承/物語の基礎にある福音書の転覆的な読み込みとも違い、そもそも新約聖書の
物語にほとんど依拠していない。むしろ、聖書の登場人物の名を借りた創作としての性格が強い。だが、やはりそ
こにも強烈な対抗性がうかがえる。それは新約聖書に描かれたキリスト教の正典的物語への対抗ではなく、むしろ

キリスト教世界の歴史への対抗である。ユダヤ教とキリスト教を切り離すことを意図したのはユダヤ人の側に他な
らず、まさにそのことによってキリスト教徒による迫害からユダヤ人が守られるのである。それは、キリスト教の
真理を証言する者としてキリスト教世界にユダヤ人が存在することが不可欠であるという、中世カトリック世界の
伝統的なアウグスティヌスの教理とまったく異なるだけでなく、ユダヤ人の存在理由についてのキリスト教的な理
解に対する明確な対抗でもある。

 

 そして、その使命を果たすために決定的な役割を担うのが改宗者である。エリヤフ(パウロ)とシモン・ケファ
(ペトロ)
は、キリスト教徒にその目的を気づかれない仕方で彼らのもとに入り込むユダヤ教の賢者である。ふた
りには共通の使命がある。それは、キリスト教への改宗という自己犠牲と引き換えに、ユダヤ人の共同体(クラ
ル・イスラエル)を守ることである。両宗教の分離は、ユダヤ人を守るためのユダヤ教側の意志であり、それはユ
ダヤ賢者による密かな/強制的な改宗によって実現するのである。そして、この対抗的な「歴史」のシナリオの創
出には強烈な皮肉が付随する。なぜシモン・ケファは高い塔にこもったのか。それは、彼がイエスの死に対する服
喪のために苦行しているとキリスト教徒たちに思い込ませ、実際には彼らとの接触を拒絶し、彼らから穢れを受け
ないようにするためであった。また、神の名前の力を使った魔術によって、自分がイエスの使者であるとキリスト
教徒たちに信じ込ませることに成功したエリヤフは、その新たな同胞にこう言う。「もしユダヤ人があなた方の左
側(左頬)を叩いてきたら、彼に向かって右側も差し出しなさい」(ibid., p. 94)。もちろんこれは、イエスの山上垂訓(マタ五39)をふまえたものだが、そこに皮肉を込めた修正がこっそり加えられている。主語が「ユダヤ人」
になっているのである。

 

四 中世ユダヤ教の聖人伝 ││ ナフマニデスの奇跡 ││
 このイエスの弟子たちの物語は、間違いなく「改宗」をそのテーマとするものである。キリスト教への改宗は、
中世キリスト教世界を生きるユダヤ人たちが直面した深刻な現実であった。これらの物語は、その改宗に「ユダヤ
人共同体を救うための犠牲行為」という新たな意味づけをする意図を含むのではないか。そしてそこでは、隠され
た使命を持つ改宗者がユダヤ教とキリスト教の分離を実現したという、キリスト教世界の歴史に対抗するもうひと
つの「歴史」が語られているのではないか。
 改宗をめぐるこうした歴史的な対抗物語については、中世ユダヤ教世界の聖人伝にも興味深い事例を見ることが
できる。ユダヤ教世界では、十六世紀にユダヤ民族の歴史を描いた歴史書が相次いで出現し、このとき初めて「真
の歴史記述としてためらうことなく認めることのできるひとつの文化現象」(イェルシャルミ)が現れたJ。

 

(略)


五 結論
 タルムードには、福音書のイエス物語を題材とし、その読みかえによってイエス・キリストの価値を転覆するラ
ビたちの対抗物語が残されている。そうしたラビ・ユダヤ教形成期の知的言説におけるキリスト教への対抗物語
は、中世において民衆世界にも広く浸透していき、「神の名前」という新たなモチーフを加えたユダヤ版イエス伝
『トルドート・イェシュ』を生み出した。その意味で、『トルドート・イェシュ』もまた、福音書というキリスト教
の正典的物語に対する強烈な対抗的性格をそなえている。

 

 だが、中世ユダヤ教世界における対抗物語は、キリスト教のいわば聖なる物語に対峙するものにとどまらなかっ
た。それはキリスト教世界の歴史、なかでもユダヤ教とキリスト教の接触のひとつである「改宗」という歴史的現
実に対する、大胆な語りなおしの試みを含んでいる。キリスト教の形成期において、ユダヤ教からの分離が進むと
いう歴史は、むしろそれがユダヤ教側からの働きかけであったと語りなおされる。そして、その使命を密かに抱
き、キリスト教徒の共同体に入っていくべく、ユダヤ人の賢者であるエリヤフとシモン・ケファが改宗するのであ
る。また、中世における改宗の問題にも新たな物語が与えられる。ナフマニデスの伝承にみられる神の名前のカバ
ラーの奇跡の物語では、改宗し、隠れてユダヤ教を実践する人々が描かれる。ただし、それはユダヤ人ではなく、
キリスト教徒なのである。

 

 改宗をめぐるキリスト教への対抗的な言説は、それを語るユダヤ民衆が、ユダヤ教を離れた改宗者たちとのあい
だになおも絆があることを意識していることをうかがわせる。改宗者たちは「クラル・イスラエル」と呼ばれるユ

ダヤ教の宗教共同体を離れてしまったかもしれない。だが、そうであってもユダヤ人を守るという使命が彼らには
あり、典礼詩において「ラビ・シモン」の名が記憶されることを望んだシモン・ケファのように、改宗者の物語を
創出することで彼らを忘れまいとする願いが込められている。こうしたユダヤ教の対抗物語はユダヤ人によって語
られ、そしてユダヤ人が聞くものである。ペトロやパウロの密かな使命や、隠れてユダヤ教を実践するキリスト教
徒たちの姿は、ユダヤ人が面白おかしくキリスト教徒に向かって語り、彼らを攻撃し、侮蔑することを意図して描
かれたものではない。その皮肉めいた笑いの要素も含めて、これらはユダヤ人のなかで語り継がれるものである。
改宗の歴史に対抗する中世ユダヤ教世界の民間伝承は、その深刻な現実を自分たちのために意味づけなおそうとす
るユダヤ民衆の願いと心性をあらわすものといえるのである。

 

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『トルドー・イェシュ』におけるイエス物語の論争性
志田 雅宏

に試訳あり

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