図書館でたまたま見つけたジョニーの自伝。

2011年発行なので少し年数は経っていますが、波乱万丈な選手時代について本人の目線で率直に語られていました。

ジョニー自身がその時にどう認識しどう感じていたか、「ジョニーの物語」を知ることで、彼の言動や表情の意味がわかると思います。

読書嫌いな私が一気に読破するほど面白いものでしたので、要約してご紹介します。





著者 ジョニー・ウィアー
訳者 田村明子
2011年4月発行  新書館









1984年生まれ、ノルウェー系の血筋でフットボール選手だった父ジョンと、ショートヘアでおしゃれにこだわりのある母パティ、弟のボズと共に、ペンシルバニア州クオリーヴィルに育つ。

当初は乗馬にのめり込んで、競技会で優勝するほどの腕だったけれど、11歳でフィギュアスケートに出会う。

スケートの初心者レッスンを受けていた場でいきなりシングルアクセルを跳び(通常は習得に2年ほどかかる)、才能を見出されてプリシラ・ヒルのもとでスケートに打ち込むことになる。


1996年スケートのレッスンを受けるために、家族でデラウェアに転居。

この時期に、プリシラの下にいたロシア人コーチからロシア風舞踊と身体の使い方を教えこまれ、ロシアへの憧れを募らせるようになる。その後、ロシア語も独学で学ぶ。

スケートを始めて1年で2種類の3回転ジャンプを身につけ、あっという間に全米トップクラスへおどり出る。
1998年全米選手権ノービスで3位。
2000年全米ジュニア選手権5位
2001年全米選手権6位
2001年世界ジュニア選手権優勝。

しかし、あまりに急激なキャリアアップと感受性の鋭さがアダとなり、メンタルコントロールが長く課題となった。






2002年、グランプリシリーズロシア大会を仮病で棄権。(自分のファッションセンスと衣装へのこだわりから、衣装を認めなかったスケート連盟に反発)
次のNHK杯も棄権。(連盟から出場を取り消される)
喫煙や飲酒を始め、生活が荒れ始める。
2003年全米選手権では、SPを完璧に滑り切って2位につけるも、FSで負傷、棄権。
助成選手枠から外される。








2003年夏、タチアナ・タラソワがコネチカット州で行なっていた合宿に参加。(ジョニーが資金難のため、タラソワはコーチ料を免除した)
それまで、ジョニーは「個性」を否定されてきたが、タラソワはジョニーのアーティスティックな個性を認めて引き出す。
SP 悲しきワルツ(タラソワ振付)
FS ドクトル・ジバゴ
地方大会からの出直しだったが、屈辱を力に変え、再び全米選手権を目指して駆け上がる。
2004年全米選手権 SP1位 FS1位で初優勝。
世界選手権5位。


過激とも取れる言動、当時は「奇抜」と思われたファッションに注目が集まるようになり、メディア露出が増える。










2004年NHK杯(名古屋)で初来日。
SP 「序奏とロンド・カプリチオーソ」
FS 「秋によせて」
(ともにタチアナ・タラソワ振付)

スタンディングオベーションで迎えられ、ファンの熱意に感銘を受ける。
2位と20点以上離して優勝。
フランス大会優勝。
ロシア大会2位(優勝はプルシェンコ)。
酒に酔った状態でライサチェクとふざけていて足を負傷、GPファイナル棄権。
2005年全米選手権2連覇。
世界選手権4位(モスクワ開催。以前から繰り返していた種子骨炎再発)
エキシビションでロシア音楽を使い、喝采を浴びる。










2005年秋   (初のオリンピックシーズン)
SP 「白鳥」(サン=サーンス作曲、タラソワ振付)
スケートカナダで初披露。片方の袖が白鳥の首(赤い手袋がくちばし)を表現、スパンコールの表面に羽が縫い付けられた繊細な衣装に、演技前は嘲笑う声も上がったが、「瀕死の白鳥」の見事な演技に高い評価を受ける。
FS 「秋によせて」の演技中に負傷、7位に終わるも、「白鳥」との出会いにより叙情性という自らの個性に目覚めていく。

2006年全米選手権では、SPは完璧な演技で1位(2位と11点差)。FSではミスしたものの3連覇。






2006年トリノオリンピック  SP2位。






メダルへの期待が高まったためか、FS前夜は一睡も出来ず。会場入りするためのバスのスケジュール変更を知らず、乗り遅れて動揺する。
FSは出だし好調だったが途中から崩れ、総合5位に終わる。メダルを取れなかったことで批判の嵐にさらされる。




2003年以来の初恋のパートナー、アレックスと破局。












2006年GPファイナルはSP「パラディオ」(マリア・アニシナ振付)中に負傷して棄権。
2007年全米選手権3位(ライサチェク優勝)
精神的に落ち込んだが、ファッションショー出演やエルトン・ジョンのオスカー・パーティー参加などで元気を回復する。



プリシラとの長い師弟関係を解消、ロシア人のガリーナ・ヤコヴレヴナ・ズミエフスカヤに教えを請う。
ジャンプを一から作り直す。








2007年中国杯ではFSでノーミスし、パーソナルベストスコアを大幅に更新して優勝。
ロシア大会も優勝。
トリノでのGPファイナルは4位。
2008年全米選手権で総合得点がライサチェクと同点、フリーで0.1点上回ったライサチェクが優勝。ジャッジングに対する抗議の声が上がる。
2008年世界選手権のSPはPB更新して2位、総合3位で初のメダル獲得。(アメリカ人で最高位)
翌年アメリカで開催される世界選手権の3枠獲得に貢献。




2008年シーズンは靴が合わずに不調。
SP 「時の翼に乗って」
FS 「ノートルダム・ド・パリ」
(共にニーナ・ペトレンコ振付)
スケートアメリカ2位(小塚崇彦優勝)
NHK杯3位
GPファイナル3位
クリスマスのアイスショー時に胃腸炎?から脱水になり、体重が一気に3キロ以上減少。
その後の体力回復が遅れ、
2009年全米選手権5位。
地元開催で、自らが3枠獲得に貢献した世界選手権の代表選考に落ち、落胆する。(世界選手権はライサチェクが優勝)
アメリカスケート連盟との関係悪化。


ジョニーのドキュメンタリー「氷上のポップスター」公開。大好評を受け、テレビシリーズ「ビー・グッド・ジョニー・ウィアー」も制作放送される。









2009年秋    (2度目のオリンピックシーズン)
SP 「I love you,I hate you.」
FS  「Fallen Angel」
(ともにデヴィッド・ウィルソン振付)
ロシア杯4位、NHK杯2位。
GPファイナル3位(ライサチェクが優勝)

2010年全米選手権  ジョニーのSPの芸術点にただ1人3.75点をつけたジャッジがおり、悪意を感じてショックを受ける。
総合は3位(ジェレミー・アボット優勝)。
オリンピック代表に選ばれるが、ジョニー自身は自分が選出された理由を「視聴率目的、人気稼ぎ」と考え、不愉快さを覚える。
エキシビションのプログラム「ポーカーフェイス」により、ジョニーのセクシュアリティが話題になる。(トリノオリンピック後にも取りざたされたが、本人は沈黙を守ってきた)


バンクーバーオリンピックの選手村へは、チームユニフォームを着用しないで、毛皮とブーツで入村。(ジョニーに対して用意されたのは、明らかに違うサイズのユニフォームだった)
開会式には決められた服装を着用するも、反骨精神をメイクで表現する。
SPの前夜の公式練習で、立ち会うべきアメリカスケート連盟の者が現れず、プルシェンコに帯同したロシア連盟関係者の見守りの中で練習を行う。
(オリンピックの公式練習では、選手が氷の上にいる間は連盟の関係者と医師が最低1名ずつ立ち会うことがルールとなっている)
SP当日の選手紹介で、他の選手のように戦績を取り上げられるのではなく「自分のテレビ番組を持っていて、ファッションが大好きだ」と紹介され、屈辱と感じる。(←アナウンスはもしかしたら、ジョニーの突出してユニークな経歴を悪意なく取り上げたのかもと私は思うけど、ジョニーは蔑まれたと感じた)
SP はジョニーにとって完璧な演技だったが、6位。




FSでは、「観客全員と分かち合えるほどの感情」が全身にみなぎり、完璧な演技で涙のスタンディングオベーションを得る。


結果は総合6位で、ブーイングが上がる。
ライサチェクが金メダル。




この時を振り返るジョニーの言葉がとてもいい。


ぼくの旅の最後の部分は天使のような歌声でしめくくられた。氷の上でも、床の上でも、数え切れないほどの時間を費やしてきたトレーニングが、最後のステップまでぼくを導いていってくれた。観客たちはぼくが最後のポーズをとって音楽が終わるまで、息を止めていた。氷の上で背中を反らせると、天地が逆になって氷がまるで空のように感じられ、天国にいるような気がした。

膝をついた姿勢のまま、しばらくじっとしていた。起き上がると、観客たちが立ち上がって泣いているのが見えた。ぼくが願っていたとおりに。このとき、もう結果はどうでもよかった。何位になってもよかった。誰がぼくよりも高い点をもらおうと関係なかった。この瞬間、ぼくはたったひとりのチャンピオンだという気がしていたから。

それから起きたことは、誰でも知っている。ぼくはブーイングと怒りの歓声の中、6位に終わった。エヴァンが金メダルを手にして、1988年以来初めての男子金メダルを米国にもたらした。

スポーツの世界では、自分にとっての勝利を設定しなくてはならない。毎回いつも勝つわけにはいかないから。もちろん、メダルという形で認めてもらいたかった。何年も、転んだり、怪我をしたり、血を出したり、泣いたりしてきた努力が、ファッション好きとまとめられたことで、傷ついた。この過去4年で、ぼくの浮ついたイメージはどんどんひどくなっていった。誰もぼくのスケートの話をしなかった。ぼくの面白い発言や、変わった行動ばかりが話題になっていた。ぼくはカラフルでエンターテイニングな人間だけど、それだけじゃない。真剣なアスリートであり、トップスケーターなのに。

でも、どうにかして、最後のオリンピック演技の苦い後味を忘れることができた。ぼくはあまり個人的な神を信頼してないのに、なぜかこのときはずっと神が最後まで一緒にいて、ここまで導いてくれたような気がしていた。これまで何度も打ちのめされてきたけど、再び立ち直って闘うことができると、今度もまた証明して見せたのだ。

もうこれは試合ではなかった。少なくともぼくにとっては。勝てないとわかるのは、アスリートにとってつらいことだ。でも人間として、個人的な勝利を見出すことは大切だ。そしてぼくの勝利は、自分らしさを見せたことだった。オリンピックチャンピオンが優勝できたのは、ぼくのように一生懸命練習をしてきたため。そしてルールに従ってきたためで、これはぼくがやらなかったことだ。勝利をつかむ人は、必ずしも自分らしさで勝つわけじゃない。ぼくはオリンピックの氷の上に、自分らしく到達できたことを誇りに思う。


中略


ぼくの全人生の集大成は、2010年2月に全世界の前で滑った10分間だった。ひとりのときか人前か、あるいはぼくのように何百万人もの前になるかはわからないけど、その人間の本質が引き出される瞬間というものを、誰もが体験しているはずだ。宇宙に向かって、「これが私です」と宣言する瞬間を。あの演技でぼくは自分の内側をさらけ出し、情熱を、心を見せた。魂そのものを見せたのだ。だからこそ、あのことは一生忘れない。





















「人の言葉なんか気にしない」なんて豪語して、人目を恐れぬ振る舞いをするのに、人の言葉に傷つきやすく、人から評価されないことに苦しむジョニー。


当時の常識を覆す衣装やプログラムで自己表現をして、沢山の批判に晒されて傷つきつつも、世界と戦った自らの半生。


ひとりの時間を欲するがゆえに起きた行き違いもあっただろう。


言葉の受け取り方の違いから生じる行き違いもあったかもしれない。


それぞれの出来事に悪意があったかどうかは私にはわからないけど、オリンピックはある意味、悲しい結末に終わった。


でもその中で、ジョニーは自分自身を認め、誇りに思い、自分を愛せる心境に達することができた。


それこそが真の幸せだったのでは?














この春夏のショーでジョニーがずっと見せてくれたプログラムの意味が、ようやくわかった気がする。


そして、そんなジョニーのプログラムを継承した、彼の今期のSP。


いよいよ今週、ヘルシンキ大会が始まる。


しっかり、想いを受けとりたい。