アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)
1889年4月20日
ドイツ国首相/国家元首/国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者







1.ヒトラーとは何者か

最大の悪人
20世紀最大の悪人として数えられるアドルフ・ヒトラー。第2次世界大戦を引き起こし、ユダヤ人の虐殺を率いたとして、その悪人ぶりは群を抜いている。
強いリーダーシップを発揮する政治家に用いられる非難の言葉も決まって、ヒトラーのようだと例えられる。20世紀に同じく独裁政治を敷いたスターリンやムッソリーニが引用されることは少ない。

また、ヒトラーの人物像を巡る解釈や証言は様々である。そしてそのほとんどは、ヒトラーを一方的に非難するものばかりだ。それは、ヒトラーに敵対していた人々が自らを正当化する意味や、ヒトラーに敵対ないし迫害されていた人々が現在そのことで利益を得ている場合もあろう。「勝てば官軍」で、戦勝国側の歴史の判断が反ヒトラーに傾いているという面が多分にあるに違いない。

このように、現在語られるヒトラー像は、誰かに都合のよいものになっている可能性が多分にある。ヒトラーも自身のプロパガンダのため、その実像が掴みにくくなっていると思われる。


そこで本稿では、数秘という先入観を介さないツールを用いて、偏見に満ちたヒトラーの実像を解明する一助とする。本稿ではヒトラーの基本的な性格やその特徴的な点を数秘で確認する。その後、ドイツや世界の歴史に影響を与えたヒトラーの出来事を年代順に見ていき、数秘の観点からその持つ意味を明らかにする。


救世主として
最初にヒトラーのコアナンバーを確認する。ヒトラーは1889年4月20日生まれである。パーソナリティーナンバーは8だ。パーソナリティーナンバーとしての8は「パワフルな仕事人間」、「アピール上手な人」、「仕切り屋」、「クールな存在感」等の印象を他人から持たれていることを意味する。ドイツやナチス党を強力なリーダーシップで率いたヒトラーの印象はまさに8そのものだ。ユダヤ人と共産主義者をドイツの敵だと断定し、理想のドイツを力強く演説するヒトラーの姿は8を彷彿とさせる。

 

またアウトバーン建設等による失業対策の成功、景気の回復、第1次世界大戦で敗れたフランスを第2次世界大戦の緒戦で撃破する等の功績からヒトラーは多くのドイツ国民から信奉されていたが、これは8の持つ「カリスマ性」とまさしく符合する。ヒトラーも自身のイメージをよく理解して行動していただろう。8は白黒はっきりさせるという意味も持つが、実際のヒトラーは決断を先延ばしにする傾向もあったようで、この点については後述する。


5の長所を最大限に生かす
バースナンバーは5-14である。バースナンバーとしての5は、「変化」や「多芸多才」、「雄弁」等を表す。この意味通り、ヒトラーの人生は変化に富む人生だったということが出来る。学生時代に芸術家を志していたものの、美術学校の受験に失敗し、一時期風来坊のような生活を送っている。そこから第1次世界大戦に兵士として参戦し、ドイツの敗戦後は軍隊での指導役を務めた。

 

また、当時の政府に敵対する組織に対するスパイ活動のような任務も行っている。そこから後のナチスに入党し、権力闘争を勝ち抜いて党首となり、やがては国政へと打って出る。このような変遷の多いヒトラーの人生を支えていたのは5の「変化」や「多芸多才」と言うことができるだろう。ヒトラーのタイプⅢのバランスは-6である。後天的に多くの資質を経験によって得るタイプであるが、5の持つ活動力で多くの資質を獲得していったのだろう。
 

ヒトラーのバースデーナンバーは5から14に移行する。14は海外度数と言われ、海外との縁が深い数字である。ヒトラーはドイツで首相になったものの、もとはオーストリア生まれでドイツ自体が外国である。また、戦争で一時期は西ヨーロッパのほぼ全てを支配し、東はロシアにまで戦線を拡大していた。海外度数が示す通り、外国と非常に縁の深い生涯だったと言える。
 

ヒトラーは「5」の持つ長所を最大限に生かしていた。5は新し物好きで、それをうまく取り入れる力がある。実際に選挙演説の際には当時本格的に利用が開始されたラジオやスピーカーを巧みに用いて遊説を行っている。飛行機も有効活用し、1日のうちにドイツ各地で演説を行い、支持の拡大に努めた。

また当時の政治家は視覚的な情報が大衆に与える影響を理解できず、写真を撮られることを嫌っていたというが、ヒトラーは写真を積極的に利用し、多くの自身の写真を撮らせている。「雄弁」という5の才能がヒトラーの演説を巧みにさせたのは言うまでもない。また、タイプⅡのエモーションも5で、鋭利な感受性で聴衆の気持ちを掴み、激しいエネルギーで聞く人の心を動かしていったのである。
 

しかし、ヒトラーは5のアマチュア面の影響も受けていた。ドイツの著名なジャーナリストであるセバスチャン・ハフナーによると、ヒトラーは前述の通り優柔不断で結論を先送りにする面が見られたという。これは、「首尾一貫しない」、「混乱と分裂」等の5の短所が現れ、決断を遅らせていたと解釈することが出来る。
 

このようにヒトラーは、バースナンバー5の短所を持ちながらも、多芸多才な才能で変化に富む人生を、進取の精神で生きてきたということが出来る。






霊能者ヒトラー
ヒトラーのデスティニーナンバーは2-11である。2のミッションは「イメージの世界での価値ある創造物を現実社会で具現化すること」である。第1次世界大戦では一介の兵士に過ぎなかったヒトラーがナチ党の党首となり、首相となって、やがては大統領職の権力も合わせて総統となり、ユダヤ人迫害やドイツの生存圏拡大等、自身の理想をドイツに実現していった過程を鑑みるに、良きにつけ悪しきにつけ、ある意味で2のミッションを最大限に果たしたと言えるだろう。

 

また、2は芸術も意味する。前述のようにヒトラーは美術家や建築家を目指しており、実際に絵画を売って生計を立てていたこともある。政治家になってからも、芸術に高い関心を示し、建築物や演説会場の設置において優れた芸術家を登用している。ヒトラーはまた第2次世界大戦後期にお抱え建築家のアルベルト・シュペーアを軍需大臣に指名している。建築物を設計、建造する際の事務的な能力の高さを買っての指名であったが、芸術そのものを評価していればこその指名ということもできるだろう。


ヒトラーは、霊能者としても知られている。第1次世界大戦の際には、戦場で人間ではない何者かの声を聴き、その声に従ってその場を離れた結果、今いた場所が攻撃に遭ってそこにいた味方が全員死んだこともあったという。このような体験を戦場で何度もしている。

また、イスラエルの建国や日本が第2次世界大戦でドイツ側で参戦すること、日本に原子爆弾が落とされること等を予言したとも言われている(ヒトラーの予言は、バースナンバー14の持つ予見力に由来するものと言えることもできる)。

 

しかし、霊能者としてのヒトラーは、一般的な研究書にはなかなか出てこず、採り上げられたとしてもオカルトや陰謀論を扱う書籍で扱われる程度である。それでは、ヒトラーの霊能力は検討に値しないものだったのだろうか。

 

ここでは、デスティニーナンバーの11に着目したい。11は「霊性」を意味する。霊的感受性が高く、高次からのメッセージを受け取ることが出来る11を持つヒトラーは、霊能力を持っていた可能性が高いと思われる。実際ヒトラーは自分にメッセージを送ってくる存在を認識しており、「あいつ」に憑依されていることを述べている。こう考えると、人々を夢中にさせた神がかった演説も、11による霊性の発露と言うことが出来るかもしれない。


純粋すぎた故に
ヒトラーのソウルナンバーは3-21である。3は子供のような純粋を表し、楽天的で創造性豊かなことを表す。

ヒトラーの人生を鑑みるに、3の意味が最も現れたのは、自分の理想に純粋過ぎたことだと思われる。すなわち、他国を侵略してまでもドイツ人の生存圏を拡大することや、世界を牛耳るユダヤ国際資本を倒すため、ドイツ及び占領地域のユダヤ人を抹殺すること、ユダヤ人だけでなく障がい者やジプシー、共産主義者等、優秀で健康なアーリア人の国家建設に不要な人々を抹殺することなど、自分の理想に純粋に、かつストイックに実行に移していった。当時からこれらの政策は批判の目が向けられていたものの、妥協を許さずに非人道的な施策まで用いて純粋な理想を貫こうとした姿勢に、3の持つアマチュア面が大きく出ていると言える。


信じる者は己のみ
ヒトラーのリアライゼーションナンバーは7である。7はスピリチュアルな意味合いも強く、精神性の探求を実現したいとヒトラーが欲していたと解釈することもできる。実際ヒトラーが単なる物質的な利益を超えて、純粋なアーリア人からなる理想の千年王国の実現を目指しており、精神性の面から7を解釈できる。


しかしここでは7の「独力で物事に対処する」 ということに着目したい。すなわち、ヒトラーは自分の力のみで大ドイツ帝国を築こうとしていたと捉えたい。実際ヒトラーは首相になった後も、時の大統領ヒンデンブルグが亡くなった後その地位も併せ持った総統に自らを就任させ、ドイツで最高の権力を手にして政治の采配を振るった。

軍首脳がスキャンダルで辞任した後(国防大臣ブロンベルク)、後任を置かず自らがその役割を引き継いだこともあった。大臣と閣議を行う回数も年を経るに連れ少なくなっていき、独裁と批判されるまでになった。戦争の過程では、敗戦が近づいていた状況でも軍人の忠告を無視して無謀な作戦を立案し、多くのドイツ軍人を死に追いやっている。
 

多くの人と交流し、心を開放して真実を分かち合うことが7の課題であるが、真反対のことを行っている。ここでも数字のアマチュア面が出ていると言えるだろう。デスティニーナンバーの11もパートナーシップの数であるが、誰かと組んで政治に当たった面は限りなく少なかった。そうであるからこそ、チャレンジナンバーが7だったのではないか。今世チャレンジするテーマが7で、深い精神性を探求し、皆でそれを分かち合うことにチャレンジするはずが、真逆の人生を歩んだと言える。    


それでも「人道的」だったヒトラー
ヒトラーのステージナンバーは9である。活躍する舞台が、人類愛や博愛、人道に関することを表す。しかし、ヒトラーが実際に行ったことはそれからかけ離れている。

それでは、ヒトラーは9の意味を全く発揮しなかったのであろうか。単純にそうだとも言い切れない。実際、景気回復、大衆車フォルクスワーゲンの普及、アウトバーン建設による失業者対策、ドイツへの好条件での帰還事業等、ドイツ国民やヨーロッパに広がるドイツ系住民のためにヒトラーは「愛」を持って政策を実行している。

 

それでは、迫害されたユダヤ人、ジプシー、共産主義者等は何だったのか。答えは簡単で、彼らはヒトラーにとって「人間」ではなかったのである。これには、デスティニーナンバーの2の暗黒面が強烈に働いていたと見ることが出来る。すなわち、善悪による対観念である。アーリア人=善、それを邪魔するユダヤ人、ジプシー、共産主義者等=悪という構図がヒトラーの中で固定化され、ひいては両者の間に人間と人間でないものの境界線が強固に引かれたわけだ。これに2の妄想癖が追加され、ユダヤ人が陰謀で世界を征服しようとしているという考えがヒトラーの頭に厳然とした事実として現れた結果、多くの悲劇が引き起こされたのだと思われる。





2.「怪物」の歴史

 ◆0~31歳(サイクル4、ピナクル6、チャレンジ2)
ヒトラーの31歳までの人生は主に幼少期、少年期、青年期を経て第一次世界大戦に従軍し、ドイツ労働者党(後のナチス党)に入党するまでの期間である。サイクルナンバーは4で、これからの人生の基盤作りの時期に当たる。若かりし日や戦争での様々な体験が、今後のヒトラーの人格形成において大いに影響したであろう。


ピナクルナンバーは6である。当時のヒトラーは、6の通り家族関係が人生の選択に影響していた。父親は自分と同じ官僚の道にヒトラーを進ませたかったが、ヒトラーはこれを嫌った。父親は職業に直結する実科学校にヒトラーを通わせたが、嫌々勉強していたからか成績は芳しくなく、卒業できなかった。結局ヒトラーは父の死後実家に戻り、その後ウィーンの美術学校を受験するが失敗する。その後母親も死去し、心の支えを失ったからか翌年の再受験にも失敗した。また、ヒトラーが祖国のオーストリアからでなくドイツから戦争に参加したのは、オーストリアの官僚だった父親への反発という面もあった。
 

チャレンジナンバーは2である。協調性や感受性を学ぶのが課題とされるが、この時期にこれらの課題をヒトラーが積極的に学んだとする文献は見当たらない。このことが後の悲劇を生む1つの要因になったのかもしれない。
 

1889年4月20日 オーストリア・ブラウナウで生まれる(0歳、サイクル14)
→ここから、激動と波乱の(5(14))のヒトラーの人生の幕が開ける。

1907年 画家を志し、ウィーンへ移住。美術学校の受験に失敗(18歳、サイクル14)。
→結果的に失敗したものの、クリエイティブ能力が高まるサイクルの14のときに美術を志し、移動が多い5(14)の時にウィーンに移住した。

1914年8月 第一次世界大戦勃発。バイエルン連隊に志願入隊(25歳、サイクル21)
→ヒトラーが祖国のオーストリアからでなくドイツから入隊に志願したことは、自分のドイツ人としての強いアイデンティティを示す一種の自己表現(3(21))であった。

1919年9月16日 ドイツ労働者党(後のナチス党)に入党(30歳、サイクル17)
→第一次世界大戦の敗戦後、軍の諜報部門にいたヒトラーはドイツ労働者党を偵察したことがきっかけで入党する。ヒトラーのバイタリティーあふれる(8(17))政治家としての活動開始である。


◆32~49歳(サイクル2、ピナクル1-10(32~40歳)、ピナクル7(41~49歳、チャレンジ6(32~40歳)、チャレンジ4(41~49歳 ))   
 
ヒトラーの32~49歳の時期は、おおよそナチスの党首に就任してから、第2次世界大戦が勃発するまでの期間である。

この時期のサイクルナンバーは2だ。調和や協調をテーマとする期間だが、ヒトラーが行ったことと、調和や協調の接点を見つけることは難しい。0~31歳のチャレンジナンバー2の続きとしてヒトラーの人生に設定されたのかもしれないが、自国及びドイツ人と、他国及び非ドイツ人との境界線を明確に設け、自分側でない方を一方的に攻撃するというデスティニーナンバー2と同様のアマチュア面が出た時期となった。
 

32~40歳のピナクルナンバーは1-10である。ナチス党首という党のリーダーとして活躍することが求められた。そして10の通り支持者に希望と活力を与えた時期だった。41~49歳になるとピナクルナンバーは7に移動する。野党のナチス党首としては、与党を攻撃するため国民の側に立つことを要求されたが、 首相、総統となるとポピュリズム的に攻撃する相手もなくなり、7の孤独主義が要求されることとなった。
 

チャレンジナンバーは4である。これはバースナンバー5のアマチュア面の散漫さに対するアンチテーゼあろう。時として首尾一貫しない姿勢に対して、着実に政策をこなすことがヒトラーの課題であったのだ。

1921年7月29日 ナチス党首に就任(32歳、サイクル19)
→ナチス党首に就任し、政治家としての活動を本格的にスタート(1(19))させる。

1923年11月8日 ミュンヘン一揆(1924年4月に有罪判決、12月出獄)(34歳、サイクル21)
→ヒトラー首謀(21の1)で武力による政府転覆を図ったミュンヘン一揆は失敗に終わり、刑務所での生活を余儀なくされた(21の2)。
 
1924年 『我が闘争』口述筆記(35歳、サイクル22)
→獄中でヒトラーは自分のビジョン(22)を描いた『我が闘争』を口述筆記する。

1932年7月31日 ヒトラー率いるナチス、国会の第1党に(43歳、サイクル21)
→この年ヒトラー率いるナチスは初めて国会の第1党に選出された(21の1)。しかし、議席の37.3%で過半数を越えられず、単独政権を樹立できなかった点に21の2が見て取れる。
 

1933年1月30日 ドイツ首相に就任(43歳、サイクル21)
→ ついにヒトラーが首相に任命される(21の1)。しかしナチ単独政権でなく、連立政権でかつ少数与党であり、ヒンデンブルク大統領の協力を得なければならなかった(21の2)のも事実である。

1933年3月23日 全権委任法可決、ヒトラーの独裁確立(43歳、サイクル21)
→首相が国会審議を経ずに全ての法律を制定できる全権委任法が可決し、ヒトラーの独裁が確立する(当時発生した国会議事堂放火事件で共産主義者が逮捕された。ヒトラー政府はこれを共産党による国家転覆の陰謀だとし、左派の国会議員を拘束したことなどから、同法の可決が可能になった )。

これはサイクル21の時の出来事だが、この法律をもとにヒトラーが大きなビジョンを実現に移していったことを鑑みると、4月20日の誕生日から始まるサイクル22の影響の方が強いと言える。

1934年8月2日  ヒンデンブルク大統領死去に伴い、総統に就任(45歳、サイクル23)
→ヒンデンブルク大統領死去に伴い、ヒトラーは首相と大統領の権限を合わせ持った総統となった。ドイツで最高の権力を持つ国家元首ヒトラーの誕生である。これによりヒトラーの野望を大胆に追及する(5(23))権力を手に入れたのだ。しかし、それと同時に後に起こる波乱の開始でもあった。

1935年3月16日 ベルサイユ条約破棄、再軍備宣言(45歳、サイクル23)
→第1次世界大戦に敗れたドイツは、ベルサイユ条約を結んだ。この条約はドイツに非常に不利な内容で、ドイツ国内で大変評判が悪かった。ドイツの再軍備を禁止していた同条約を破ってヒトラーが再軍備を宣言したことは、5(23)の自由への渇望を宣言するに等しかった。

1936年3月 ドイツ軍、ラインラントに進駐(46歳、サイクル24)
→ロカルノ条約で非武装地帯となっていたラインラント(ドイツ西部のライン川沿岸一帯)にヒトラーの指令でドイツ軍が進駐した。フランス軍の反撃を恐れつつも、自身の理想(6(24))とするドイツに向かって着々と手を打っていく姿勢からは、24の4を想起させる。

1938年3月 ドイツ、オーストリアを併合(48歳、サイクル17)
→ヒトラーは長年の悲願だったオーストリア併合を実現した(8(17))。同じドイツ民族が国境で隔てられた状況はヒトラーにとって何の意味もなく、早晩同一になるべき存在であったのだ。

1938年11月9~10日 水晶の夜(49歳、サイクル18)
→ヒトラーが政権を獲得してから、ユダヤ人の公職追放、ユダヤ人と非ユダヤ人の結婚の禁止、ユダヤ人著作の焚書等、反ユダヤ人政策を進めていった。その内の1つの象徴的な出来事が水晶の夜である。ユダヤ人少年にドイツ人外交官が殺害されたのをきっかけに、ヒトラー政権は報復としてユダヤ人のシナゴーグ、商店や企業をナチ党員に襲撃させた。しかし、このような所業もヒトラーにとっては人道的な正義の表れでしかなかったのである(9(18))。





◆50~56歳(サイクル8、ピナクル3、チャレンジ4)
50~56歳は、第2次世界大戦開始から自決するまでの期間である。サイクルナンバーは8だ。その時期のテーマは統率力だった。良きにつけ悪しきにつけ、ドイツを勝利に導かねばならない。持ち前の天才的な演説で国民を鼓舞し、勝利に向けて勇気づけていった。
 

ピナクルナンバーは3である。緒戦はドイツ軍優位であったものの、徐々に苦境に立たされていく祖国ドイツ。そこで求められたのは、3の持つ豊かな創造性ではなかったか。イギリス侵攻に手を焼いている中で米ソへ戦端を開くには、現代の解釈では無理がある。戦争に勝利とまではいかずとも、講和に持ち込むのために常識を超えた創造性で巧みな戦略を立案し、局面を打開するが必要があったではなかったのか。
 

チャレンジナンバーは4だ。これは41~49歳の時と同じで、バースナンバー5の混乱と分裂から自らを諫め、政策を着実に現実化することが課題であったと解釈することが出来よう。
特に戦争末期は、デスティニーナンバー2の妄想癖もあり、いもしない軍隊がソ連軍に包囲されたベルリンの自分を救いに来ると信じたりしていた。50~56歳のチャレンジ4が課題としてより強いものになっていたと言えよう。

1939年9月1日 ドイツ、ポーランドに侵攻。第2次世界大戦勃発(50歳、サイクル19)
→ヒトラードイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦の火蓋が切って落とされた(1(19))。しかしそれはヒトラーにとって終わりの始まりでもあった(19の9)

1942年6月 アウシュビッツでユダヤ人大量ガス殺開始(53歳、サイクル22)
→後世まで悪名高きアウシュビッツ収容所でのユダヤ人のホロコーストの始まりである。しかしこれもヒトラーにとってユダヤ人なき世界の実現という偉業の達成(22)の一部でしかなかった。

1945年3月 「ネロ指令」(55歳、サイクル24)
→この頃のドイツは戦況が悪化し、好転の見込みが無くなっていた。ヒトラーは侵入した敵に物資を渡さないよう国土の焦土化を命じたが、この命令は国民の生活や戦後復興を完全に度外視したものだった。自分が理想とした強いドイツが実現できないのなら、滅んでしまえとするヒトラーの姿勢は、6(24)の理想主義の悪しき面が出たと言える。

1945年4月29日 エーファ・ブラウンと結婚(56歳、サイクル25)
→ソ連軍がベルリンの総統地下壕に迫る中、ヒトラーは恋人のエーファ・ブラウンと結婚する。ヒトラーは、女性票を失うこと恐れてエーファ・ブラウンの存在を公にしてこなかったが、ドイツの敗戦を目前にして 孤高な印象のあるサイクル7(25)で、愛する女性と結ばれたことは、心を開放して真実を分かち合うという7の課題を死の直前に1つ達成したと言えるかもしれない。

1945年4月30日 ベルリンの地下壕で自殺(56歳、サイクル25)
→祖国の敗戦が誰の目にも決定的となり、とりうる選択肢が無くなる中で(25の2)     ヒトラーは拳銃自殺した。このころになるとヒトラーは神がかっていた雰囲気は消え、ナースナンバー5の持つ才気煥発さは無くなっていいた。むしろ、不安定であったり、分裂的
であったりして5のマイナス面が出ていた。サイクル25の5と相まって、よりマイナス面が出ていた可能性もある。自分の人生についてもそうで、混乱と分裂の中で自分の生命を自ら断つことで自分の人生を強制的に終了させてしまった。ようは「ネロ指令」で国民の生活の資本を断とうとしたように、自分の人生をも滅ぼすことをヒトラーは選んだのである。





3.    大き過ぎた落差

アドルフ・ヒトラーを本レポートの対象として決めたのは、世界的な大人物であること、世界史に大きな影響を与えたこと、当時ヒトラーが戦争を仕掛け、また弾圧した対象が現世で大きな影響力を持ち、正当な評価がなされていないのではないかという問題意識があったからであった。
 

実際にヒトラーを数秘で見てみた最終的な結論は、数字の長所と短所の落差が大き過ぎるということである。ヒトラーはバースナンバー5の雄弁の才能を生かした神がかり的な演説、エモーションナンバー5の大衆の気持ちを掴む力、ステージナンバー9の「愛」の力によるドイツ国民への景気回復や失業者対策等輝かしい実績を残している。しかしその一方で、デスティニーナンバー2に起因すると思われるユダヤ人虐殺、リアライゼーションナンバー7による独裁、極めつけは、ドイツの焦土化を命令した、バースナンバー5の不安定による「ネロ指令」等、数字の暗黒面に取りつかれたとしか思えない政策を実施している。
 

それでは、何故このような事態が起こってしまったのか。これは、ヒトラーが、世界を変える力を持ちながら、自身の才能の開発を怠ったとしか考えられない。ほとんどの人間は数字のアマチュア面に止まっているというが、潜在能力が大きいと、世界を悪い方向に変えてしまえかねないのである。数秘は、自分の持っている才能に気づかせてくれる有効なツールである。生年月日と名前だけで、その人の才能や性格を教えてくれる。しかし、その長所を知っているだけでは意味がない。幸い、自分は数秘に触れることが出来、自身の長所を教わった。自分がヒトラーと肩を並べる才能があるとは言わないが、ヒトラーと同じ轍を踏まないよう、たゆまず日々精進していきたい。

 

主な参考文献
セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(草思社、2017年)
石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社、2015年)
高田博行『ヒトラー演説 熱狂の真実』(中央公論新社、2014年)

 

 

 

 

 

 

Reported by 
AEONS Numerology Basic the 13th Class
Yuuki @ Keio-Inokashira Class