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神谷美恵子

愛のうつわ
~自己の思いを愛にあふれた言葉で表現する~ 



   出生名:前田美恵子
   生年月日:1921年10月3日
   逝去:1979年10月22日



医師、教師、作家、翻訳家、妻、母親、といろいろな顔を持ち、活躍された神谷美恵子さん。
ハンセン病と出会いやその他の経験や学びから感じたことを、文才も生かして世に投げかけました。
うつくしい文章からうかがい知ることのできるお人柄ですが、数秘からもその魅力を読み解いてみたいと思います。


★誕生数 
Birthpath Number ~生まれ持った資質・才能・運命~
 【19-10-1】 自分を創造し表現する

明るく前向きで、目標に向かって突き進む強い意志と瞬発力を備えています。
あふれる想像力で自分を表現し、行動します。
一見、上流階級でのびのび育ったエリートのようにも見られますが、幾多の壁にぶつかりながらも、自分を見失わず、運命とも思えるような出会いや自分の思いに素直に従い、やりたいものを形にしていかれました。
情熱的に物事に取り組み、表現してしく姿や言葉は、人々を惹きつけます。
まさにリーダー、指導者です。
そして、自分を信頼して発せられる愛のある思いに、人々は導かれ癒されたのだと思います。
また、自分の役目を果たしていかれたのだと感じました。


★運命数 
Destiny Number ~人生における使命・目的~
【5】 自由・チャレンジ

変化の多い環境の中で、旺盛な知的好奇心を活かし、自分も柔軟に変化しチャレンジしていきます。
有り余る冒険心と自由でのびのびした創造力やするどい分析力で、どんな仕事もこなせます。
既存の価値観を打破するチャレンジャーです。
父親や夫の仕事の関係からも、引越し、編入、留学など、また、戦争や病気など、その目まぐるしく変わる環境から多くのことを経験し学んでいきます。結婚し仕事と家庭の両立や、医学への思いと文学への思いなど、悩みながらも自分の中の制限と弱い心を取り払い、挑戦していかれました。
その経験と思いが、自由に心を開放して、言葉や行動に表現されています。
  
「・・・主体的に生きる、ということはしかし、ただ気ままに生きるということではない。たとえば、自ら進んで身を挺して何かに仕えることなどは主体的な行動のうちでも、もっとも主体的なものだといえる。いずれにせよ、主体性と自由には、つねに責任と何がしかの冒険が伴う。しかし、あえて責任を負い、冒険にのりだすことこそ、新鮮な生きるよろこびを約束してくれるのではなかろうか。」(『人間をみつめて』)


  
★ソウル数 
Soul Number ~魂の欲求~

 【9】 人類愛
崇高な理想へ向け、包容力、正義感、深い慈悲の心を持って、奉仕していきます。
すべての人の立場に共感し理解したいと人々に寄り添います。
 
“その人が生きてそこにいること、存在自体が誰かの何かの役に立つ”、“他人の役に立つ喜びを体感して人間どうしの交わりが相互に活かされ、それぞれ役に立つ存在として人間らしく生きていく”そうした存在をめざして、仕事をしていかれました。


「・・・・・・だれに見てもらうためでもなく、
ただそのよろこびの故に、こうして、ここにやってきて、
こうして生かされていることのありがたさ。
・・・・・・こうしたありかたが許されることのふしぎさ・・・・・・。」
(『人間をみつめて』)


『神谷美恵子の世界』の中で、川島みどりさんは、“美恵子の主体的な生き方と、その底に秘められた人間愛は、文字通り、ナイチンゲールの言う“犠牲なき献身こそ真の奉仕”通じる、そして、看護学生に「もっと自信を持っていいのよ。あなたたちは患者のそばに存在するだけでも意味があるのだから」との彼女のつぶやきを伝えたい“と書いています。

ハンセン病の問題などの治療の方針や、出版された本に対しても、すべての人が全くの批判がないかと言えば決してそうではないけれども、自分の信念に基づき、愛のある生き方を実践されたのだと思います。


★人格数 
Personality Number ~他者から映る自分~

【14-5】 真の自由の探究
その場その場で、素早く順応でき、多才でスピーディーな行動力があります。
「先生に会ったことのある人なら、嫌いになる人はいないのでは・・・。」と書かれていたり、“聖者”とも書かれるほど、人望が厚かったようです。女性が活躍していくには現代よりも更に大変な時代であったと思われますが、こころの声に従い、自分のやりたい道をすすんでいかれた人だと多くの人に映っているでしょう。
人はさまざまな事態にみまわれ、忍耐力をためされ、自己の生が全く無意味であると感じる状況になったとしても、その経験や葛藤に真に向かい合い、自分の答えを見つけていけるのだと、表現してくれた人だと思います。
自らも「生きていくこととは?人間とは?」と問い続け、学び経験し、それを多くの人に考え影響を与えた人です。



★実現可能数 
Realization Number

【6】 自己回帰
人々の役にたつ人間になるべく奉仕します。責任感と愛情深さ、人々に導きを与えることのできる知恵を持ち、行動します。包み込むようなやさしさと滅多なことでは投げ出さない面倒見のよさから、慕われ頼られます。調和を愛する理想主義者です。
 
ものを書くことへの思いと研究したい病への思いは、つきなかったようで65歳という若さで逝かれたのは、もしかしたら、悔いがあったのかも知れません。
けれども、それまでのご活躍は理想を実現できていると多くの人に認められたのではないかと感じます。





 

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History

★人生の歩み 
Year Cycle  

1914年 1月 岡山市で誕生。二男三女の長女として育つ。    
(第一次世界大戦1914年7月~1918年11月)
1923年 9歳【19(10)】  父の仕事のため、スイスへ。

1926年 12歳【22(12)】  帰国

1927年 13歳【14(5)】 帰国後通っていた学校になじめず、登校拒否。新設されて間もない成城高等女学校へ編入。叔父の聖書研究会に参加するようになる。ものを書くということが、この頃から美恵子の大きな部分を占めるようになる。
変化・チャレンジの年です。受身であった時期、まだまだ受け取るものがたくさんですが、その中で自分はどうしていくのか訓練の始まりです。

1932年 18歳【19(10)】 津田英学塾本科に入学。

1933年 19歳【20(11)】 叔父がハンセン病療養所へ話をしにいく際に、オルガン伴奏者として同行。初めて見る患者の姿に大きな衝撃を受ける。
医師となることを考えて資料を取り寄せ、ひそかに受験準備を始めるが、両親や学長の猛反対にあう。ハンセン病の患者さんに会い、自分と同じ生を受けながら、どうして・・・と自分の存在そのものもゆさぶられたと感じた美恵子ですが、この分岐の年に、選択したい道にすすめなかったことも運命のような気がします。
また、この頃の初恋の相手の死も、その後、生きていくことの意味をを問い、医師をめざすきっかけとなったそうです。

1935年 21歳【22(13)】 津田英学塾卒業。同大学部に進学。
肺結核発病。 軽井沢の山荘で本を読みながら、療養生活。
英語科高等教員検定試験に必要な本を取り寄せ、読む。
国家試験に合格。結核も治癒。
思うように行かぬ中でも、あたらしい自分を探し基盤をつくりました。

936年 22歳【23(14)】 結核再発。再び療養所へ。ギリシャ語を独習し、新約聖書、
プラトンの『自省録』などを読む。 療養している時間を無駄にせず、次への模索です。
(この頃書いた詩を最後に掲載しました。)

1937年 23歳【15(6)】 結核治癒。病気も治り、愛、調和、家族を学ぶ周期の始まりです。

1938年 24歳【16(7)】 渡米。留学。

1939年 25歳【17(8)】 友との語らいの中で医学への決心を新たにする。
ニューヨークで開催していた万国博覧会の「公衆衛生医学」館に釘付けになる
美恵子に、ついに父の反対がとけ、医学の道にすすむことを許される。
第2次世界大戦1939年9月~1945年9月)

1940年 26歳【18(9)】 日米関係悪化。帰国。

1941年 27歳【19(10)】 東京女子医学専門学校へ編入。
導かれるように、ようやく医学への勉強を始められます。

1943年 29歳【21(12)】 医学を修める間も、ものを書きたいという思いにゆれる。
東京大学精神科医局長の島崎敏樹と出会い、精神医学への興味をかきたてられる。
国立療養所愛生園で12日間実習。園長の人柄にふれ、大きな影響をうける。
愛生園行きは、父の反対で、卒業後の進路を精神医学に定める。

1944年 30歳【22(13)】 東京女子医専を卒業。東京大学医学部精神科医局に入局。

1945年 31歳【23(14)】 空襲激しくなり、罹災被害者の処置にあたる。
父が文部大臣に就任。請われて、医局を休んで文部省で書類の翻訳などの仕事にあたる。
抗えない状況の中、本当の自由とは?と模索していきます。

1946年 32歳【24(15)】 父は文部大臣を辞職したが、そのあとも、GHQとの交渉における翻訳・通訳の仕事に従事。5月 医局に戻り、精神鑑定の仕事を手伝う。7月 植物学者と結婚。
週に三日医局に通い、家では英文論文の添削や、家計を助けるための和文英訳のアルバイト、家事に追われる。変化とチャレンジの多い年ですが、次の周期への糧となっていると感じます。

1947年 33歳【16(7)】 長男誕生。英語、フランス語、ドイツ語の家庭教師のアルバイトを始める。内省と探究の周期の始まりです。子どもが生まれ、ますます、自分のやりたいこととの葛藤がふえた状況の中、自分の今できることは何か?問いながら、しかし、子どもへの愛と感謝を忘れずすすんでいかれた姿は見習いたいところです。

1949年 35歳【18(9)】 夫、大阪へ単身赴任。訳書 マルクス・アウレリウス『自省録』。
次男誕生。

     
0 – 35 歳
Cycle Numbers 【1】  Pinnacle Numbers 【4】  Challenge Numbers【2】
自分を成長訓練させる時期、基礎となる学びを受け入れていく時期です。
個性の強い両親の軋轢に、人のこころは難しいものだという印象を早くから植え付けられたそうです。ハンセン病との出会い、これが大きな転機となりますが、海外での学び、戦争、キリスト教、
初恋の人の死や自らの病など、多くの経験が思索に影響をあたえました。



1951年 37歳【20(11)】 医局を辞め、一家は芦屋へ。
家計を支えるため、神戸女子学院英文科非常勤講師となる。
ここも分岐の年ですが、自分では選択できず、運命に流されるままといったところでしょうか。
家計を支えるための仕事で、医学、書くことに時間が取れないという苛立ちもありながら、教えるということによろこびもあったようです。

1952年 38歳【21(12)】 大阪大学医学部神経科に研究生として入局。
ハンセン病の精神医学的研究への取り組みということが心の中で育ち始める。家庭と学問の両立に苦しむ。

1953年 39歳【22(13)】 次男、結核発病。自宅でフランス語の塾を始める。
与えられた環境の中で、自分のしたいことは?できることは?またまた、考えさせられた状況であったと思われます。

1956年 42歳【25(16)】 神戸女子で語学に加え、精神衛生の講義も始める。
教える喜びを感じつつも、再び専任にとの誘いを断り、医学、ハンセン病への思いを 新たにする。
愛生園で非常勤職員となることが決まり、調査を行う。

1957年 43歳【17(8)】 非常勤職員としてスタート。
調査より、「生きがいがない」という悩みが多く見られたことから、「生きがい」についての思索が始まる。いろいろ思索してきたことをまとめあげる8の周期の始まりです

1958年 44歳【18(9)】 ゴッホ展を観に行った際に、自分の余生を「表現する」という使命に捧げるべき「啓示」を受ける。

1963年 49歳【23(14)】 津田塾大学教授となり、毎週上京。

1965年 51歳【25(16)】 長島愛生園精神科医長となり、月に二度、水曜から土曜を島で過ごす。津田塾大学は非常勤講師となり、年に一度集中講義をおこなう。「生きがいについて」を書き上げる。

1966年 52歳【26(17)】 『生きがいについて』(みすず書房)出版。
ひとつの集大成と感じます。しかし、ご本人にとっては、この作品が表層的ブームになったことに当惑したようです。

1967年 53歳【18(9)】 愛生園精神科医長を退き、非常勤となる。 



36 – 53歳
Cycle Nnmber【3】

36 – 44歳
  Pinnacle Numbers 【9】  Challenge Numbers【3】
視野が広がり、創造、表現していく時期、精神的成長の時期です。
医学、文学、そして家庭とどれにもよろこびを感じることができ、また、うまく時間のとれないジレンマを感じ、いろいろな思いを日記に書いています。作品にも影響をあたえたのでしょう。
『人間をみつめて』には、使命感についても書かれています。

ただ「そうせずにはいられないからやる」という「やむにやまれぬ」という必然性、すなわち自然さをそなえているはずである。必ずしも利益や結果を期待してのことでない「無償性」をそなえているはずである。

何かよび声がきこえたときに、それにすぐ応じることができるように、耳をすましながら、自分を用意して行くことだけだろう。そういう人のところに おそかれ早かれ使命が、何かのかたちをとって、現れてくる。前国連事務総長の故ハマーショルドはいう。
「使命のほうがわれわれを探しているのであって、われわれのほうが使命を探しているのではない。」

45 – 53歳
Pinnacle Numbers 【4】  Challenge Numbers【1】
経験してきたことを、独創性を持ち、慈悲のこころで、世に奉仕、発表していきます。



1971年 57歳【22(13)】 『人間をみつめて』(朝日新聞社)出版。
12月 最初の狭心症発作をおこす。

1972年 58歳【23(14)】 健康上の理由により愛生園を辞任。以後も、手紙や電話で患者との対話は続いた。この間、入退院繰り返しながら、『こころの旅』(日本評論社)『神谷美恵子エッセイ集』など出版。

1978年 64歳【20(11)】 岡崎の官舎に転居。『精神医学と人間』(ルガール社)刊行。
秋より翌年にかけて『みすず』誌に「V・ウルフ病跡おぼえがき」を連載。
十数年来構想をあたため、準備を重ねてきたウルフの病跡についての著作は、完成をみることはできなかった。

1979年 65歳【21(12)】 14回にわたる入退院、その予後から、いつまで意識を保っていられるだろうかという不安と恐怖を抱えつつ、自伝『遍歴』を執筆。
『生きがいについて』の改訂を終える。
10月22日、一時帰宅中に急性心不全の発作を起こし、死去。
晩年も、ギリシャ文学やウルフ病の研究など、まだまだやりたいことがつきなかったようですが、病床でも自分の思いを詩に表したり、訪れた人とは楽しく談笑し、ご自分の世界へひきこんでおられたようです。
完成の周期、体験してこられたことをできるかぎり表現して逝かれたと感じます。



54– 歳
Cycle Numbers 【15-6】  Pinnacle Numbers 【16-7】  Challenge Numbers【5】
本質を理解し、内省と探究をし、さらに活発に発信し、成功を果たします。 
ご本人としては、完成されていなかった研究結果などもあり、まだまだ、書き足りないとの思いも
あったかもしれません。
しかし、教師として医師としての奉仕ともいえる仕事の仕方や、残していかれた多くの作品から、
人生を本当に力いっぱい楽しんでいきていかれた方だと思います。




 

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~リーディングを終えて~

レポートを書くことになり、学生時代に読んだ「生きがいについて」「人間をみつめて」の著者である、神谷美恵子さんが浮かびました。
ですが、Year Cycleが全て二桁ということで、なかなか読み解けませんでした。
もう一人、候補に考えたのは、ムーミンの生みの親 トーベ・ヤンソンさんですが、ヤンソンさんも
なぜか1914年生まれで、二桁の多い方でした。
ヤンソンさんの方が、誕生数【14-5】、運命数【9】、ソウル数【11-2】、人格数【7】、実現可能数【14-5】と自分の持っている数字と同じ数が多かったので、ヤンソンさんにするべきだったのか!?とも思いましたが、神谷美恵子さんの本を少し読み返しているうちに、時間がたってしまいました。

学生時代に読んだきりだったので、詳しい内容はすっかり忘れてしまっていましたし、神谷美恵子さんの人生も知らなかったので、こんなに病気と闘いながら書いておられたとは思ってもしませんでした。

そして、書いてある言葉がAeonsで聞いている言葉とリンクしてくるような気がして、実際、
Year Cycleは、なかなか読めなかったのですが、そのまま提出させていただきたいと思いました。
また、気になったのは、神谷美恵子さんと自分の数字のリンクが少ないことでしたが、5という数字がなんとなくフォーカスされてきて、ヤンソンさんにしてみても、5が入っています。
自分には、ない数字だ・・・と思っておりましたが、30 – 47歳のCycle Numbersが5、
48歳-のChallenge Numbersが5でした。

自分が何をしたいか・・・ずっとわからず、聞かれてもなかなか答えられなかった保育園のころ、小学生のころのことまで、少し思いだしました。

真面目だと茶化されるのは嫌だったり、素直に思ったことは、照れくさくて言えなかったり、偽善みたいだろうか、きれいごとたろうか・・・きれいごとのどこがいけないのか?理想をいうことは恥ずかしいことなのか?・・・など頭の中で、いろんな思いがごちゃごちゃになり、結局、自分が何を感じたのかわからなくなり、それを繰り返してきたことを思い出しました。

まだ、はっきりこれから何がしたいのかわからないのですが、自由に自分を表現したり、もっと変化を楽しむようにチャレンジしろ!!といわれている気がしました。
思い切ってためているものを爆発させてもよいのかもしれませんが、何か大きな変化をしなければ・・・と気負わず、少しずつ、人にちょっとしたヒントや刺激をいつの間にかあたえていたかも・・・くらいでも、外に向かって動きだせはよいのかも・・・とも、思いました。
と、いいながら、本当にやるの?といっているエゴ?がいる気もしますが、とりあえず、こうして今、学びを続けている自分を認めてあげてこれが外へつながる勇気となることを信じたいと思います。

最後に、結核療養中に生まれた詩を紹介させていただいてレポートを閉じさせていただきます。



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 うつわの歌     1936.12.3

 私はうつわよ、
 愛をうけるための。
 うつわはまるで腐れ木よ、
 いつこわれるかわからない。

 でも愛はいのちの水よ、
 みくにの泉なのだから。
 あとからあとから湧き出でて、
 つきることもない。

 うつわはじっとしているの、
 うごいたら逸れちゃうもの。
 ただ口を天に向けてれば、
 流れ込まない筈はない。

 愛は降りつづけるのよ、
 時には春雨のように、
 時には夕立のように。
 どの日も止むことはない。

 とても痛い時もあるのよ、
 あんまり勢いがいいと。
 でもいつも同じ水よ、
 まざりものなんかない。

 うつわはじきに溢れるのよ、
 そしてまわりにこぼれるの。
 こぼれて何処へいくのでしょう、
 —そんなこと、私知らない。

 私はうつわよ、
 愛をうけるための。
 私はただのうつわ、
 いつもうけるだけ。




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<参考文献> 『文藝別冊 神谷美恵子』河出書房新社 2014, 
『神谷美恵子の世界』みすず書房 2004


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