Lee Kuan Yew(リー・クアンユー)

1923年9月16日- 2015年3月23日

 

 

淡路島ほどの国土で天然資源もない東南アジアの小さな島国、シンガポール。1965年に独立後、困難な状況下で指導力を発揮し、奇跡的な経済成長を遂げ、一代で世界有数の先進都市国家へと導いた、初代首相 リー・クアンユー。

シンガポールで最高のエリート養成校ラッフルズカレッジで学び、英国ケンブリッジ大学を首席で卒業、弁護士出身のエリートですが、その経歴とは裏腹に、彼の人生は波乱万丈です。“建国の父”は、辣腕な政治指導者とされる一方で、能力主義・エリート主義と一党独裁政治体制はさまざまな議論を呼びました。そんな彼の人生を読み解いていきたいと思います。

 

 

● 誕生数 生まれ持った資質、才能、その人の潜在能力

   #22―#4 「創造、建設」
根づかせるエネルギーを持ち、天と地を結びつけるマスタービルダー。YearCycleも#22で誕生。不合理さや挫折など、人生で多くの学びを経験し、その経験から大きな偉業を成し遂げることができる人。

#22は#4の増強版で、#4のエネルギーによって与えられる不屈の精神と忍耐力で安定かつ現実的に、着実に一歩ずつ、目的を実現させていく力があります。

自叙伝で、「アイデアには思われているほど価値がない、実行にこそ価値がある」と語り、リーは、何もない「ゼロ」の状態から、#22の強い霊的感受性を生かして、心に描いた夢を具現化し、シンガポールを豊かな国に育て上げました。

#4は基盤を作るナンバーですが、第二次世界大戦中、日本軍による占領を経験したリーにとって、朝、太陽が昇り、夕方になると日が沈むように、仕事があり、食べるものがあり、寝る場所があるという普通であること、安定した社会的基盤をつくることは要であったといえます。

 

 

● 運命数 対外的テーマ

    #5 「変化、自由、挑戦」

自由や変化を好む#5のとおり、リーの好きな言葉は「サバイバル」。

英国留学時、発展した英国とアジアの格差やアジア人への人種差別を経験し、リーは決心します。

「我々は西洋の人間よりも劣っている、ずっと劣ったままだという固定概念を絶対に打ち破るんだ」。周りと同調せず、自分のハートの声を聞き、社会に向けて自分の生き方、考え方を提示していきました。常識に縛られない自由な発想力で、シンガポールという小さな島国に無限の可能性を見出し、国を発展へと導いたように思えます。

また、#5は教師度数が高く、鋭い知性を表すナンバーです。独自の洞察力を持つことから、古くはリチャード・ニクソンから最近ではバラク・オバマまでの歴代米国大統領、英国のトニー・ブレア、フランスのジャック・シラクなど世界の指導者たちがリーにアドバイスを求め、彼を師と仰ぎました。

 

 

● ソウル数 魂の欲求

   #19―#10―#1 「創造、独立、革新」

#19は真理を学ぶことによって、本当の意味での自信と威厳を現実社会で確立していくことを学ぶカルミックナンバー。また、#10は人道的な目的や人に癒しを与える方向へ向かうナンバーです。

リーを語る上で欠かせないのは、その圧倒的なリーダーシップ。

弁護士時代には、独立運動で植民地政府に弾圧された労働組合や学生指導者の弁護を引き受け、政治の世界に踏み込んでからは、共産主義者との対決や英国との独立交渉、マレーシアとの合併交渉など常に先頭に立ち、本人はエリートではありましたが、何ものをも持たない弱い立場を常に代表して強者たちと交渉にあたりました。勇気を持って推し進める彼のその姿は、周囲に希望の光を与えたに違いありません。

 

 

● 人格数 人格・印象

   #22―#4

誕生数と同じ#22―#4。他者から見た印象と自分の内面が同じことから、さらにその存在感が際立ちます。#22のもつ強烈なリーダーシップと一筋縄ではいかない大胆不敵さ、強いカリスマ性そのままに、晩年に至るまで国家指導者として約60年も絶大な影響を保ちました。

 

 

● Realization 可能性

   #9 「人類愛、寛容、社会貢献」

第二次世界大戦中、日本軍は華人に対して大量虐殺を行いました。リー本人も処刑は逃れましたが、暴力をふるわれたり、友人も拷問を受けたり、慰安所には長蛇の列が。日本軍の非道な行為は、リーの目にどのように映ったのでしょうか。

彼が政治家となり、小さな島国を先進国へ導いた背景には、このときの体験が原動力だったといわれています。そして自分のすべてをシンガポール繁栄のために捧げました。

日本軍の支配下は、「銃口の下で人々がどのように考え、行動するか」「どんな大学よりも、政治について私に多くの事を教えてくれた」と述べています。

同時に、リーは日本の過去の過ちに対して『許す力』を発揮しました。

「許そう、しかし忘れまい」。

シンガポールの国として、日本による虐殺や占領に対する答えが、このスローガンです。

過去を越え、今シンガポールと日本とが友好関係にあるのは、リー・クアンユーが残したスロー・ガンがあるからこそ。過去に起こった事実は変えられませんが、リーは、自我をの意識を越えて、許せないと思う相手ですら「自分にこの学びを教えるために、自分の人生という舞台に現れてくれた登場人物」であり、「全てを忘れるのではなく、人生の学びとして生かす」ことを悟ったのかもしれません。

 

 

● Stage 人生においてどのような舞台に立つのか

   #7

シンガポールの今日の繁栄の礎を築いたリーダーとして称されたリーは、自叙伝や自国の政治論にとどまらず、常に未来を読み、世界情勢の予測など著書やインタビューなど多くを残しています。今までのさまざまな経験と深い洞察力をもって、自分が得た知識を世の中に発信していきました。

「私が学んだことは何か。それは人間や人間社会の持つ両面性だ。向上する可能性もある反面、後退や崩壊の恐れが常につきまとう。いかに脆弱か、私にはわかる」と語り、リーは絶対的な善などない、物事の陰陽を正しく理解することが政治的な成果につながると説きました。

 

 

● Challenge 人生における課題

   #33-#6

#33は破壊と創造、調和のナンバー。今までの慣習、環境を打破し、物質的な安寧を実現することが課題となります。

 

 

● Nature その人が持つ生まれ持った資質・本質

   #4 「安定、現実、規律」

規律に厳しく「明るい北朝鮮」と揶揄されるシンガポールですが、リーが過去の歴史上の独裁者たちとは明らかに違う点は、国民や滞在者にも厳しい分、それ以上自分にも厳しい人でした。

シンガポールの政治に「汚職」という文字は存在せず、世界一クリーンで知られています。

リーにとって、不倫や汚職などのスキャンダルは、政治家の運命を絶つ、絶対にあってはならないもの。家族を愛せない者に国を愛せるはずがない、という考えを他の政治家にも浸透させました。

また、「志を持てば、人気取りは必要ない」と言い切り、不人気な政策を打つことをいといませんでしたが、決して無理はしない。一足飛びに理念を実現しようとせず、時間をかけて環境づくりをしていくことを怠りませんでした。

本人の行動特性であるAction number、TypeⅡの創造する力のCreation、そして情緒、感情の流れがすべて#1というところから、#1の持つ「創造」「革新」という、人とは異なる視点を持ち、新しいものを生み出す創造性と大きなエネルギーを備えているのがわかります。

 

 

● Support(サポートする力、何かを支援する力)

    #4 「家族や親族、親子関係を尊ぶ」

リーは愛妻家としても有名です。夫人とは、二男一女をもうけ、夫人への愛情は大変深く、晩年も夫人を献身的に介護し、寄り添いました。遺言では次のように残しています。

「私の遺灰の一部は妻と共に混ぜられ、妻と私の遺灰は並んで墓地に置かれたい。私と母さんは生ある時に結ばれた、来世でも一緒に居続けたい」

 

 

● History
  若年期
  0~32歳

  Cycle #9  Pinnacle #25-#7  Challenge #2

#9「変容」、#7「内省」、二桁のイヤーサイクルが続くことから、日本軍の占領時の体験や、英国留学、弁護士として活躍後、人民行動党を創設し、政治家への道を進むなど、さまざまな経験を通して、変化を受け入れながらも、物事の本質を探究していく学びの時期となります。

 

 

・1923年9月16日、当時英国植民地であり、マレーシア、中国、インドから移民が集まった移民社会のシンガポールで中国系移民の5人兄弟の長男として生まれる。(#22)

英語を話す家系に生まれたリーは幼くして英語教育を受けたが、当時のシンガポールでは一握りのエリート。幼少期は中国語ができず、マレー人とよく遊び、福建語が入り交じったマレー語で会話していた。

 

・1942年2月 (18歳 #22)

#22は大きな変化の波を受け入れるナンバー。

ラッフルズ大学で学んでいたが、太平洋戦争中の1942年に日本軍によるシンガポール占領とイギリス植民地政府の崩壊に伴い、大学が閉鎖、学業を中断せざるを得なくなる。日本軍による東南アジアに住む華僑弾圧がはじまり、リーは「処刑リスト」に入るが、間一髪逃れる。

 

・1945年8月 終戦(#25 21歳)

#2受容と#5自由、革新、破壊のナンバー。

永遠に続くと思われた英国による支配が日本にとって替わり、終戦を迎え日本軍が去る。この体験がリーの中でナショナリズムの意識を芽生えさせる。

「私は第二次世界大戦と日本による占領を経験し、その体験を通じて、日本であろうとイギリスであろうと我々を弾圧したり、痛めつけたりする権利はないのだ、自ら治め、自尊心ある国民として誇りを持てる国で、子供たちを育てていこう」と決意する。

 

・1945年 イギリスへ留学 (22歳 #17)

#1創造性を追求し、#7ステージアップへ、#8達成へ向かう。

 

・1949年 ケンブリッジ大学で法律学を専攻、首席で卒業、帰国後、弁護士資格を取得し、法律事務所に勤務する。 (26歳 #21)

#2受容と#1はじまり、開始、#3さらなる発展・拡大、豊かさを受け取る。

勤めていた法律事務所の上司が政党の候補者として選挙に立候補、この時運動員を務めたことから、リーの政治的経歴が始まる。

 

・1950年9月30日に結婚 (27歳 #22)

大きなビジョンを描き、新しいステージへ向かう創造のナンバー。

 

・1954年11月21日、人民行動党を創設、政治家リー・クアンユーが本格的に誕生する。 (31歳 #26) #2強調と#6調和、#8パワフルなエネルギーのナンバー。

 

 

  壮年(そうねん)期 33~50歳

  Cycle #16-#7、Pinnacle (33歳~41歳 #13-#4、42歳~50歳 #11-#2)、Challenge #1

33歳~41歳にかけてのPinnacleは #13-#4の「死と再生」。創造と破壊を繰り返し、常に学びを喚起させられる。初代首相に就任後、望まないかたちでシンガポールが独立するなど、リーにとって最大の試練が訪れますが、自分自身のエゴに傾くことなく、現実的な問題を堅実に対処し、乗り越えていきます。

42歳~50歳にかけては#11-2。真の理想に向かって目標に突き進み、現実社会で具現化していきます。

Cycleの#16は多くの経験を通して何度も価値観を変え、真理とは何かと探究するナンバー。

リーは教義や理論の囚人になることを拒否し、さまざまな仮説を立て、検証されたことだけを実行し、上手くいくと根底にある原理は何かを突き止めようとしました。こうして、「どうしたらうまくいくか」を常に考え、深く内省・探究することにより、奇跡的な飛躍をしていきます。

この時期の課題は、創造性とリーダーシップを発揮し、新しい物事を確立すること。

独立後は、国民の教育や資産形成に力を注ぎ、手厚いインフラ設備で外資を誘致し、産業を興してリーダーシップを発揮する一方で、徹底した能力主義、失敗・敗者復活を許さない教育制度などのエリート能力主義の政策や厳しい罰金刑には内外から批判が相次ぎました。「尊敬されるリーダーになるためには、恐れられなくてはいけない」と、反対の声には常に力で抑え込み、恐れられることを意図的に選んだのがうかがえます。

 

・1959年6月3日 (35歳 #21) 創造、拡大、開花

 シンガポールの初代首相に就任。教育や住居、失業などの問題に取り組む。

 

・1961年 マラヤ連邦との合併を実現すべくマラヤ連邦の首相であるラーマンと、イギリスの植民地支配を終えるための運動を開始する。 (38歳 #24)

 

・1963年9月16日 (40歳 #26)

シンガポールは晴れてマレーシアの一部となり、住民の生活の安定を図る。

 

しかし、リーの望みとは裏腹に連邦は短命に終わります。

人種間の対立から、暴動・物価の上昇、国民の生活はさらなる困窮に陥り、リーは不眠症に悩まされ続けます。2年後、マレーシアのトップ、ラーマンはシンガポールをマレーシアから一方的に追放することを決めます。

#2受容、#6調和、#8は達成、力をあらわすと同時に現実を学ぶナンバー。リーは大きな組織の中で、理想や志だけでは立ちゆかないことを学ぶことになります。

 

・1965年8月9日 独立宣言(41歳 #27)

#9完結し、新しい流れに向かう。

中国系住民の華人が大半を占めるシンガポールに対して、マレー人中心の国家であるマレーシアが反発を抱き、切り捨てるような形で独立させられる。

 

 

独自の資源も食料も水さえも乏しく近隣の国とも揉め事が絶えない絶望的な状態でのスタートになりました。シンガポールの独立を発表するテレビ中継でリーは、国民に向けて語りかけます。

「私にとって今は苦渋の時。生涯、私はマレーシアとシンガポール、二つの領域の合併と統一を信じてきました。・・・」中継の最中には、常に冷静なリーが自制心を失い、人目をはばからず涙する場面もありました。

一国では立ち行かないと言われていた小さな島国。祖国が存亡の危機に瀕し、絶望の中にいたリーは、この時どこまでシンガポールの未来を信じていたのでしょうか。

シンガポール独立直後、彼は病に倒れます。誰にも望まれない中での船出となりましたが、今までの経験と挫折が後のブレイクスルーへと変容していきます。

 

独立当初、リーがこれから取り組まなければならない問題は山積みではありましたが、ここでモノの見方を変えていきます。それは、「他国が必要とする国になること」。そして自国は天然資源や水源が乏しくとも、人的資源があることに気づきます。

資産形成、教育に力を入れ、国民一人ひとりが自立し、健全な精神を養うこと、安定した基盤をつくること、子供の世代に依存しなくても生活していける社会環境をつくることを目的に、次々と政策を打ち出し実現していきます。

 

1967年 環境美化運動「クリーン&グリーン」を提唱 #21

#2調和 #1創造性 #3発展・拡大

60年代、街はスラムで悪臭に満ちていました。リーはシンガポールを第三世界で突出した国にする方法を考え抜いたすえ、「クリーン&グリーン」、つまり清潔で緑の多い国にするという答えにいきつきます。この運動は公共の草花を踏み荒らしたり、盗んだり、ごみやつばを吐く人々の悪しき習慣を変え、新たな価値観や習慣を浸透させていく、創意と根気をつくす長い歳月を要した施策でした。しかし、彼には「ここで流れを変えれば、シンガポールの将来が必ず変わる」という明確なビジョンがあったのではないでしょうか。

 

 

  中年期以降 51~91歳

  Cycle #15-#6、Pinnacle #15-#6、Challenge #3

#6自己回帰ナンバー。自己や周囲、環境との調和 #3開花を楽しみ、発展、育む。

前述のシンガポールを東南アジアのオアシスにし、世界中から企業や観光客を誘致できる国づくりを目指した「クリーン&グリーン」は、決して容易な取り組みではありませんでしたが、それでもリーは粘り強くこの運動を主導し、現在の“ガーデンシティ”として知られるシンガポールを勝ち取ります。それは、まさに常識を打ち破るチャレンジそのものでした。

「過去に培ってきた習慣や既得権を捨てたがる人はいない。ただ、一国として存続するにはある種の特色、共通の国民性を持つ必要がある。圧力をかけると問題にぶつかる。だが優しく少しずつ働きかければ、同化はせずとも、やがて融合するのはものの道理だ」

リーは人間の内面を理解し、成果を焦らず、多くの人がついていけるスピードで数々の変革を実行していきました。

 

・1990年11月 首相の座を譲り、上級相となる (67歳 #8 権威、現実面での学び、軌道修正)

時代は流れ、市場経済は「グローバル・スタンダード」へと変化します。リーのような開発主義は、その非民主的性格から国内外からの批判を浴びるようになり、31年務めた首相の座を自らの意思で退き、上級相となります。表向きの役割は政治経験の豊富な者として閣僚たちに助言する立場ですが、実態は若い世代の閣僚たちの政治を政権内部から監視し、隠然たる力を残します。また、時間をかけて長男を後継者に育て上げ、最後に首相につかせます。

 

・2010年10月 夫人が亡くなる (87歳 #10)

・2011年5月 内閣から退く意向を表明する (87歳 #10)

 

・2015年3月 91歳で肺がんのため亡くなる (#14)

国葬前日、一般弔問には亜熱帯の炎天下の中、最長11時間の列ができ、国葬の日は、「神が泣いている」といわれたほど、めったにない大雨で一日中降り続きました。

「あなたがシンガポールで成し遂げたことを忘れない」「シンガポールはあなたそのもの」と多くの国民から哀悼のメッセージが寄せられ、建国の父は、誰よりも恐れられ、同時に誰よりも愛されました。

 

 

遺言では次のように残しています。

 

 

「やり残したことはない。

私は自分の人生をほぼこの国をつくりあげることに使った。それ以外に私がする必要なことなどなかった。私が最後に得たものは何か。成功したシンガポールだ。

私が捨てねばならなかったものは何か。それは、私の命。」

 

 

いくつもの宗教や価値観が混ざり合う国を育て上げる裏には、どれだけの苦しみがあったのでしょうか。私怨を捨て、自分の欲求を超越し、崇高な衝動に突き動かされたからこそ、彼は祖国の流れを大きく変えることができました。

第二次世界大戦後、政治経済の不安定さ、社会混乱に直面していた時代に登場し、シンガポールを舞台にこれらの課題を成し遂げて、アジア諸国にひとつの統治モデルを体現した時代の寵児は、これからも人々の心深くに刻み込まれるでしょう。

 

 

                                       Reported by

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