【第一子の妊娠】

 1994年3月、その日は朝から、不調でした。

ご飯の炊きあがる匂いが部屋中に充満した時、吐き気を感じました。 

 (何故だろう?もしかして、これはつわり?) 

 次の月経までまだ日にちがありましたので、月経が停止したのか、その時点では分かりませんでした。 

 しかし、次の日も、ごはんの炊ける匂いで気分が悪くなり、次は、食器棚を開けて、こもった匂いに吐きそうになりました。 

 こんなことは初めてでしたので、妊娠だろうと思いました。

市販の妊娠検査薬は買ってありました。

月経開始予定日を2日過ぎた頃に使い、陽性を確認しました。

しかし、確実ではありませんし、妊娠だったとしても、まだ安定していません。主人には伝えましたが、3ヶ月は、誰にも言わないでおきました。 

 出産予定日は、最終月経から計算して、11月上旬と分かりましたが、あえて、サバを読んで遅い日程を周りの人には伝えました。 

 「予定日が近くなると、親や友人たちから、『まだか、まだか』と言われてプレッシャーを感じた。」 
と、いうお産の体験談を読んだので、
「予定日は、11月末」
ということにしていました。

計算した予定日より2日遅い、11月10日の出産でしたが、お陰で、「まだか、まだか」と急かされなくて、静かな気持ちで待てました。

 日本の言い伝えでも
「十月十日(とつきとおか)」
は有名ですから、10日は待とうと思っていました。

 その頃、埼玉県川口市の自宅から、東京都練馬区にある恩師のカイロプラクティック研究所に電車で通勤していました。 

 食欲もなくなりましたが、なぜかグレープフルーツジュースだけ飲めました。体重は落ちましたし、働くのがしんどい期間でした。 

 午前中は練馬区に行き、一度家に戻り、夕方からは、川口駅からバスで15分程のところにある、学習塾の講師をしていました。 

 1993年5月に結婚し、同時に、主人は、カイロプラクティックの治療院を開業しました。

主人は柔道整復師の資格を持っており、結婚前は病院で勤務していたのですが、開業した為に安定収入がなくなりました。

貯金もほとんど無い状態で結婚したので、子どもが生まれるまでは、ギリギリまで働こうと思っていました。

 学習塾の講師は、自宅で予習の時間が必要ですし、授業前にミニテストを印刷したりと、授業以外もやることが多かったのでそれほど高給ではなかったです。 

 でも、比較的自由にやらせてもらえました。

算数の図形の授業では、画用紙で立体を作ったり、国語の問題文に出てきた話で、ゆで卵と生卵の見分け方を、実際に子ども達にやらせてみたりしました。 

 学習塾は、成績を上げなくてはいけないのですが、そういうことは苦手で、私は時々、怒られていました。 

 《長い目で見たら、成績が上がる》
というのは、通用しない世界でしたが、子どもたちと過ごせたのは楽しかったです。

 しかし、妊娠してからは、さすがにダブルワークはきつくなり、退職しました。

午前中にカイロプラクティックの治療院で助手をする仕事は、10月末日まで、つまり出産する10日前まで続けました。 

 「貧乏人は安産」
と、昔の本に書いてありましたから、よく働いた方が安産だろうと思ったのです。