オルガ・トヴェルスカヤのシューベルトD959のCDについて、アマゾンにレビューを投稿しました。

 

オルガ・トヴェルスカヤを知ったのも1年前のこと。今やほとんど情報もないけれど、彼女の残した11枚のCDの素晴らしさと言ったら。
 このシューベルトのソナタD959と楽興の時D780の演奏は彼女のソロデビューのCDである。モダン楽器からフォルテピアノに転向してわずか3年少し、トヴェルスカヤは1820年代のオリジナルのグラーフで、彼女以外決して出せないであろう特別な音とフォルテピアノの表現力をもって、シューベルトの和声・フレージング感覚を表現した。
 トヴェルスカヤの音は本当に特別であるーそれはモダンピアノの、「透明な、線の細い美しさ」とは全く別の世界の、フォルテピアノに秘められた、印影に溢れた美しさである。

 コンラート ・グラーフ1820年ごろ製作のフォルテピアノは彼女に極めて鋭敏に反応し、変幻自在な音色を創り出し応えている。奏者と楽器が共に演奏している感覚が聴こえて来るのである。奏者が弾かなければ楽器の音は出ないーしかし、1820年代のヴィーンに生まれたグラーフのピアノには当時の音楽の記憶が、シューベルトが、ベートーヴェンが生きていた当時の記憶が保たれている。それをトヴェルスカヤは呼び覚まし、楽器から引き出しているように感じる。鍵盤楽器に果たしてこんなことができるのであろうか?と言う疑問?さえ持ってしまう、あまりの音と表現の多様さであり、私は完全に心を全て奪われてしまった。
 
 解説書にトヴェルスカヤ自身が書いた文章からは、彼女の音楽への、特に古楽器演奏家としての姿勢・哲学が、そしてシューベルトの時代のヴィーンのフォルテピアノに関する知識が、極めて簡潔に、しかし真髄を突いた表現で述べられている。
「タイミング、本質的なルバート、フォルテピアノのもたらす極めて豊かな色彩を生かした演奏」と言う彼女が語った言葉は、そのまま彼女の演奏により我々の前に姿を現す。
 
 25年前の発売当初には、かの吉田秀和も評論を寄せ、リヒテルやグールドなどを引き合いに出しながら、トヴェルスカヤのシューベルトを、大変な感銘を受けたこと、そしてある種の戸惑いも持ったことも正直に述べた評論で評した(当初、レコード芸術’96年8月号に掲載され、「吉田秀和作曲家論集2・シューベルト」にも収録されている)。他の演奏でシューベルトの作品を聴き慣れた人がこの演奏を聞けば、多くの人々がある種の戸惑いも覚える事も、確かである。
 私は、この前に彼女の別の録音、シューベルトの所謂「小イ長調(D664)」ソナタ、ソナタD566、、グリンカ、メンデルスゾーンなどを聴いてからこのCDを聴き、それらの録音を通しても、今までこのレビューに書いたような感銘を受けてきて、それでいてこれを聞いたわけなのだけど、それでも尚、初めて聞いた瞬間には、確かにある種の戸惑いも感じた。しかし、それをさらに聴き進めていくうちに、それこそが、他の録音でも彼女が一貫して貫いた彼女の音楽であると言うことに気づかされた。
 彼女が解説書で「タイミングは表現を豊かにする不可欠なツールであり、ルバートは本質的な意味において使われる」と述べて、そして実際に演奏で実践している点は、そのまま、カール・チェルニーが彼のOp.500 ‘theoretical and practical Pianoforte school’ の第三部第三章「場合による時間と動きの度合い」で述べている(当時の演奏スタイルの)「もしかしたら最も重要な点」を想起させるものである。
 この点、私の意見は吉田秀和と少々異なる。吉田は「彼女のは、いわゆる「古楽器派」のように、20世紀のスタイルから離れて、古い時代の音楽にふさわしいスタイルで弾くことに努めるといった「復古主義」の生き方とは違うようだ」と述べているが、私の感想はそうではなくて、ルバート、アッチェルランドであるとかラレンタンドを効果的に、しかし絶対に「やりすぎ」に聴こえない、最高のバランスで使っていくトヴェルスカヤの演奏スタイルは、現代我々がよく耳にする、言い方は良くないかもしれないけど、メトロノームが刻むリズムに準拠したインテンポで演奏するシューベルトであったりベートーヴェンであったりとは違う、チェルニーらが著書の中で伝えてくれている「(ほんとうの)古楽的な演奏スタイル」に迫っていくものであると思う。

 トヴェルスカヤは「モダン楽器での演奏においてはより幅の広い音量の変化を利用する傾向があるけれども、フォルテピアノ奏者は、音色や、音域の間でのコントラストを存分に活かすことができるということである。」と述べているが、その「フォルテピアノ奏者が活かせるもの」を完璧に活かした演奏を実現している。これは、音色のコントラストや、タイミングの表現よりも、強打に耐える楽器の圧倒的な耐久性に頼った音量の変化に頼り切る、現在モダンピアノだけでなく、フォルテピアノ演奏に於いてもモダンピアノの解釈を流用し現在頻繁にみられる演奏傾向の対極にあるものである。
 フォルテピアノの特徴をスルーし使用楽器だけを古楽器に移し替えただけの演奏が蔓延するフォルテピアノの世界で、若くして彼女が成し遂げたこのシューベルトの超大作の演奏は特別な意味を持つ。1960年代、レオンハルトやアーノンクール、ホグウッドなどが古楽器を用いて新たなバッハの世界を模索し始めたように、トヴェルスカヤはこの録音で、モダンピアノにおける演奏をフォルテピアノの鍵盤に移し替える、と言う一般的な演奏に対し、それを乗り越える大きな一歩を踏み出したのである。