87 アシュラリスト ほうやれほ
「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王(ずしおう)恋しや、ほうやれほ…」
老いて盲目となった母親が、人買いにさらわれた子供を思いつぶやいている。森鴎外の小説、「山椒大夫」の一場面である。
「ほうやれほ」の単調な繰り返しが、もの悲しくいたたまれない深い悲しみを際立たせる。小説では、母子三人は今の新潟県の海岸から舟で拉致され、母は佐渡島で暮らす設定となっている。安寿は弟をかばって死に、弟の厨子王は後に母との再会を果たす。
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ゼーレの眼
この時期は、「こどもの日」から「母の日」と続く季節…。
過去に書いたがここにリマインドする。
(今は亡き母へ捧げる)
小さいお菓子袋
小学校低学年の時、近くに神社があり、お祭りの時、お賽銭を1回50円上げるとアメとか、金平糖、ゼリーとかいろいろなお菓子が入った小さい紙袋を1つ、もらえました。
私は兄弟が多く貧乏だったので、このお祭りは楽しみにしていた行事です。
小学生の私には50円(いまの50円玉ではなく穴が開いていて一回り大きい)とはいえ、私にとって大金でした。
大好きな母と一緒に食べようと思い、母からもらった50円と自分で貯めていた50円とをあわせて、100円。
これでお菓子袋が2つ貰えると思い、喜び勇んで神社に行き、50円玉を2つ入れて、お菓子袋を2つ貰おうとしました。
しかし、賽銭箱の前で番人をしていた、神社のおばあさんがこう言いました。
「だめよ、2つ、もっていっちゃ!1つですよ!!」と怒られました。
私は小さい声で「50円玉を2つ入れました・・・」と。
そしたら、おばあさんは「お金を入れた音が1回しか聞こえなかったわよ・・・」とこわい顔で言いました。
賽銭箱にお賽銭を入れる前に、おばあさんにお金を見せればよかったなぁ・・・。
もはや、証拠がありません。
私はしょぼんとして、お菓子袋をひとつだけ貰って帰ってきました。
母にそのことを説明したら思わず泣いてしまいました。
そして、
ひとつのお菓子袋、母と分けて食べました。
母は「おばあさんには聞こえなくても、神社の神様はしっかり見ていたはずよ、気にしなくて良いのよ」。
その、お菓子の味が母の愛だったと思いました。
5月は「母の日」がありますね。
この時期になると、しばし他界した母のことを思い出します。
私はもはやプレゼントも親孝行もできませんが、皆さんは、どのように母の日を過ごされることでしょう。
何も特別なことをしなくても、電話をするだけでも喜んでくれるようです。私の場合もそうでした。
故郷にいる母に、「お母さん、有り難う!」と・・・、ただそれだけで。
あの小さなお菓子のはいった紙袋、
ひとつの袋のお菓子を母と分けて食べた、二度と味わえない切ない味をふと思い出し、かみしめるのも、心のグルメかもしれません。
母さんは、物も不足し、だれしも貧しかった時代に精一杯明るく優しく生きようとしましたね。
第1次世界大戦終了2年後に生まれて、第2次世界大戦が始まったときに成人式を迎え、その戦争が終了したときには25歳でしたね。
私を産んでくれた時は39歳でしたね。そして、あなたは63歳の若さで旅立った。
その2つの大きな戦争の間に挟まれ、母さん、あなたは一体どのような青春時代を過ごしたのでしょう?
もはや聞くこともかないません・・・。かないませんが、問いかけることであなたがそばに来てくれて、あの小さいお菓子袋を持って、微笑みかけてくれる気がするのです、あの時のように・・・。
産んでくれてありがとう。産んでくれたから、やさしいあなたに出会えた。ありがとう、母さん。
おわり。文:栗城利光「102年目の母の日」(Live on:企画編集、発行:長崎出版)P22より
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街で手をつないだ親子連れの姿を見かけると、いつもその結ばれた手と手に目がいく。そしていつまでも離さないで、と思う。
テーマにシンクロする曲:
僕が生まれた時のこと-It was when I was born-安達充
*英語の歌詞が、日本語の歌詞とかぶって見えにくいときは、英語の歌詞をマウスでドラッグして移動させてください。または「CC」ボタンを押せば消えます。