73 アシュラリスト 俯(うつむ)いたお友達 (取材報告)
小学校4年生のともちゃんとひかりちゃんはお友達。放課後、ひかりちゃんはともちゃんにいっしょに帰ろうと言いました…。
ひかりちゃん:「ともちゃん、いっしょに帰ろう!」
ともちゃん:「うん」と元気なさそうに言った。
ひかりちゃん:「それじゃ、私のランドセル持って…」「明日からもずっと持ってね…」
ともちゃん:「うん」といいながら、うつむいてひかりちゃんのうしろを歩く。
これが(言葉による)暴力のコミュニケーションの開始である。
*名前は設定上の仮名
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ゼーレの眼
上記は、NPO法人「エンパワメントかながわ」による寸劇の一こまだった。私は昨日(1月22日)の夕方、新宿区内で開催されたイベントに参加した。同NPO法人は「生きる権利(人権)を伝えることで、暴力のない社会を目指すこと」を目的の一つとしている。
暴力は簡単で身近なコミュニケーション。いじめをしている子供たちに聞いてみると、いじめをするとすがすがしくなった、あるいは自分が偉くなった気持ちだという。この継続反復する連鎖は断ち切り難くも悩ましい問題だ。大人(保護者)の対応として有効なことは、子供の話を聴く(聞くではなく、聴くことに主眼を置く)、それは子どもの感情の掘り出しに他ならないのだ。しかし、早急な解決と指示はかえって効果がない。人とつながりたいという心理作用を否定もしくは減衰させてしまうからだ。
同NPOはCAP(Child Assault Prevention:子どもへの暴力防止)のプログラムを紹介し、その思想を上記の寸劇のようにまとめ、それを観ている者に思考させる方法をとる。
人権教育プログラムとして、「あんしん・じしん・じゆう」を掲げ、そのボディランゲージとして、あんしんは胸の前で両手をクロスし、じしんはガッツポーズ、じゆうはバンザイをしている体形で表す。
「あんしん」とは、こわいことがないこと。「じしん」はできなかったことができたこと。「じゆう」は自分にできることを自分で選べること。(小学校を設定しての話、たとえば昼休みにはいくつかできることがある。遊んだり、本を読んだり、休憩したり、それらの選択肢を自分で選べること)。上記の寸劇では、権利が取られることを説明する(参考までに障害者の権利奪取は健常者の7割以上ともいわれる)。人の権利をとる(上記の例だと、ランドセルを他人に持たせる)。当たり前のことだが、人の権利を奪うことは人権侵害になる。人の権利をとらずに、自分の権利を守ることは可能だろうか?そこに3つの提起をする。1つは「NO」(いやだ)という主張。いやだは人の権利をとらない。2つには「GO」(逃げる権利)。対象者との距離を保つ。相手と手が届かない距離に立つと意外と精神的安心感を保てるという(パーソナルスペース)。3つには、「TELL」(大人に話してほしい)を伝える。告げ口は相手を困らせたりする悪意があるが、救いを求めることは問題ない。
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意外なことに、実に身につまされたワークショップだった。これは子どもの問題でなく、大人の問題でもあることに気づく。あなたは「ランドセル」にどのような名詞を入れることだろう。私も経験的にそしてリアルタイムに、「あんしん・じしん・じゆう」は他者のためにそれらがないか制限されている。相当量の権利が取られている実感と実害がある。
今後生きていく上で、「人の権利をとらずに、自分の権利を守ることは可能だろうか?」は大きなテーマとなるはずだ。
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最後に、NPO法人「エンパワメントかながわ」はこう締めくくった。
わたしは、私が何をするかを自分で選んで決めていい
わたしは、じぶんのよいところや能力を、ちゃんと認めてもらってもいい
わたしは、確かにあなたの感情を伝えていい
わたしは、他の人の気持ちにではなく、自分の気持ちにそって、「はい」「いいえ」を言っていい
わたしは、まちがえてもいい
わたしは、わたしのままでいい
と、おとなが自分を信じてほしい…。
自分らしい自分があるように、あなたらしいあなたも認めあえるような環境を創出していきたい。
NPO法人「エンパワメントかながわ」は、自治体、小学校・中学校等でのワークショップのほか、デートDV予防プログラム、セクハラ防止プログラム、子どもの護身法、コミュニケーションスキルのプログラムの展開をしている。
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「人生の抱負は子どもの姿でやってくる」とラビンドラナート・タゴールは言った。私達の行動と希望は子どもの姿で、そして結果は子どもの成長の姿でやってくる。
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