70 アシュラリスト アシュラ覚醒(自覚の始まり)
精神に住む阿修羅(アシュラ)の自覚はいつに始まったのか?
私の18歳当時の記録がそれを示しているだろうか。たぶん同時に詩集「イージス」も活発に動き出したのもその時期だった。
以下、日記より
―――――
父は年をとり、定年退職。母は専業主婦。姉達が次々に結婚し始めて、家庭の経済状態が苦しくなり、私立高校に通っていた私は学費を払うのにも事欠くことが余儀なくされた。そして、もとより、そう裕福ではない家庭の手だすけをするため昼間は働き、夜は勉強という定時制高校に入ることを決め、転校した。私立高校の単位は公立高校では役にたたないのでまた高校1年生から再入学した。
そして私の新しい生活が始まった。昼間はストーブの部品をプレス加工する大手電機メーカーの下請け会社に務め、夜は月の光をうけ通学、そして勉強をした。
そして高校2年の時だった、担任の先生に呼び止められ、教頭先生が、話があるとのことで職員室に呼ばれた。職員室に行くと教頭先生が私に会うなり、「いいところに来た、栗城に次の生徒会長をやってくれないか!」と言われた。理由は分からなかったがその場で、「わかりました」と即答した。間もなく生徒会長選挙が開かれ、私は生徒会長に信任された。これを聞いた母は大変喜んでくれた記憶がある。
昼間は働き、夜は勉強し、その後に生徒会活動をした。朝7時30分に家を出て、家に帰るのはだいたい夜の10時30分頃だった。口で言うのは簡単だが、実際に生活するのは時間に追われ大変だった。そして私の任期中の1977年(昭和52年)10月1日(土)、2(日)に文化祭が行われた。私が一番気を使い、一番楽しみにしていた行事であった。沢山の高校生と出会い、話し合い、交流し、また他校の生徒会長との接待、説明、案内、挙句の果てには、もめ事の調整で休む暇もなかった。「ああ、これが青春なんだなぁー」と一人で感じ入っていた。そして次の日(3日)から普通に会社に出勤した(全日制の生徒は代休)。しかし、昭和52年10月4日(火)に生涯忘れることができない事故が起きた。その日の私はとても快調だった。私はストーブの部品形成のプレス機械を操作していた。そして仕事もそろそろ終わりに近づいたところ、ふと鋭い眠気が差し、次の瞬間、機械に吸いこまれるように自分の左手の指が中に入ってしまった。「アァー」、そして2~3分後ひどい激痛が体中を走り回り、気分が悪くなり、一人では立っていられなくなった。そして一瞬、気を失ってしまったのだろう。後ろからきた誰かに抱きかかえられ、私は車に乗せられた。激しい痛みが断続的に体を襲って、「私は取り返しのつかぬことをしてしまった」と直感した。気が付いて、見ると私のズボンの左足の上に大量の血が付いていた。意識があるかないかのうちに、間もなく病院に着き、着くやいなや手術室に運ばれ、左手の指の根元からブスブスと麻酔の注射を数本打たれ、応急手術が終わり、気が付いたらベッドの上だった。そして私の左腕が動かないことに気がついた。その後、担当医師から、「もはや、君の指の接合は出来なかったので、君の左手の人差し指、中指、薬指の第1間接および第2間接を切断した。」と言われた。手術が終わったとはいえ傷みは続き、絶望感が心を支配した。そして絶望感とは裏腹に激しい怒りの心も湧き上がってきた。それはありきたりのやつあたりというもの「一体俺が何をしたというんだ!何か悪いことでもしたと言うのか?」そのテキストの空回りをしばらく眺めている自分がいた。
生徒会でもみんなのために頑張ったとも思っていた。文化祭も無事に成功したし、生徒会長だからみんなの模範になるような行動をしなければならないと思って、気を張ってもいた。
小さい頃からエンジニアになりたいという夢が崩れてしまったではないか!心の中は凄まじく、激しい孤独感と絶望感と恨み心で胸を掻きむしっていた。鈍痛と疼痛の繰り返しがさらにそれを助長する。しかし入院中でも両親、学校の同級生・後輩達も毎日のように見舞いに来てくれた。それで一時は心の励みになるが、1日1回の検診がまたも私の心を掻き乱した。切断された指の断面にガーゼが巻かれ、流れ出る血が固まり、検診の度に、そのガーゼを一気に剥がされる。なんという責苦だ。そのたびに出血し、気の遠くなる痛みが襲ってくる。
「どうしてこんな痛みを受け入れなければならないのか?」と悲観しつつ涙が頬をつたう。その後、「抜糸」の日がきた。もはや左手の指の肉体の一部になっている指の断面に縫い付けられた糸をすべて抜き取る作業だった。この時ばかりは、担当の医師の他に5~6人の看護婦がきた。私一人のためにチームで登場してきたので余計に緊張が増した。私の左手はベッドの左側の台にバンドで固定され、看護婦の一人は私の両足を、他の一人は腰の部分や胸の部分に覆いかぶさるようにして、私の体は固定された。「あまりの痛みのために舌を噛んではいけないよ。」と言って母がタオルを用意してくれたので、そのタオルを口に当てがい、しっかりと奥の方まで入れて噛んだ。手術が始まった。またも気が遠くなる痛みと、自分ではどうすることもできない苦痛をひたすら耐えることしかなかった。涙はかれはて、痛みのためにもがきようにも体は複数の看護婦にしっかりとガードされ逃げようがないのだ。
その時だった。
私の耳元にいた婦長が、こう言った。「あなたは男でしょう。こんな事でへこたれてはいけません。私は子供を2人産みましたが、女が子供を産む苦しみから比べれば、あなたの苦しみはずっと軽いほうなのよ。あなたはこれからずっと男として生きていかなくてはならないのだからしっかりとこの痛みと戦いなさい!」その声には優しさと強さを兼ね備えたように私には聞こえた。
手術が終わりその晩のこと。我に帰りハットして、気が付いた。私の心の中に母の姿が浮かんできた。もしかしたら「母が私を産んでくれた時、母はこんな思いをしたのか、こんな苦しみを味わったのか!」と思うと、次第に胸が熱くなってきた。なぜかそう思うと痛みは和らぎ体中が軽くなってきた。なぜだか、その手術の夜はぐっすりと眠ることができた。
私はこの体験を通して女性が子供を生む苦しみというものの一部を感じたように思う。
1977年(昭和52年)10月4日18歳の秋の出来事だった。
―――――
☆
ゼーレの眼
就職した会社の仕事内容、事故の程度、勤務していた婦長のローテーション、手術の日程と、母の看病そのどれもタイミングが少しでもずれていたら、このような体験はできなかった。あの婦長の言葉は私の精神性を変える大きなきっかけになった。そして大きな励みであり、癒しであり、感謝であり、また安らぎであった。この時、私は、人間の言葉には、人を感動させるより大きな愛情の力を持つことができることを体験で知ることになった。
◇
ちなみに当時の文化祭のパンフレットに私はこんな記事を寄せていた。
*****
新しき友を 定時制生徒会長 栗城利光
今回の足高際は私にとっては、会心事であり、また希望でもあります。めまぐるしく変遷する世の中で、真の友・心の友を得ることが難儀になってきました。学歴重視主義とかエゴイズムが拍車を加えてか、自分の中に閉じこもる人がふえてきたように感じます。孤独の人がふえれば、その人自身、悩み、苦しみも多くなると思います。その時こそ必要なのは「友」にほかなりません。だからといって、相手が来るまで待っているのは問題です。どうか皆さんも勇気を出して、1人でも友だちを作ってもらいたいですね。
この足高際を転機として、皆さんに幸福多かれと嘆願しつつ・・・・・・友誼最上。
1977年10月1日(土)・2日(日)栃木県立足利高等学校・テーマ「広げようこころのつながり」
*****
私はこの文化祭の2日後に生涯離れることはないだろうとてつもない友人と出会うことになったのだ…。
◇
AEGIS シリーズ全編及び「ゼーレの眼」と画像(You Tubeコンテンツは除く)
転載、コピー等はご遠慮ください。
Copyright(c)1999-2011 Toshimitsu Kuriki. All Rights Reserved.
テーマにシンクロする曲
とても印象的なメロディライン、歌詞の内容はシリアスだが、あの当時の自分には合っていた。つらい時に元気が出る曲だ。ギルバートは1970年代を代表する希代のメロディ・メーカーと言われ、この曲は彼の最高のヒット曲である。全米で6週間№1を獲得し、イギリスを含むヨーロッパで最高3位にまでのぼった。また世界中のアーティストにカヴァーされている。日本でこれまで様々な番組・CMで幾度となく起用され、アニメ「めぞん一刻」のテーマにも使われていた。
曲「アローン・アゲイン」:歌「ギルバート・オサリバン」
ALONE AGEIN(Naturally) Gilbert O'Sullivan
僕はたとえ不幸せではなくても
今すぐに
近くの塔に行き
頂上まで登り
身を投げることも
平気でできると思う
くじけている人に
はっきり見せるため
助けもなしに佇む
教会で
僕の様子を見ながら
人々が話していた
“神よ 彼女は息子を育て上げた
あれはしっかりしている
もう大丈夫だから帰りましょう“
自分でしたことだが
またひとりぼっちになった ごく自然に
きのうを振り返れば
僕は明るく陽気で
僕の領分を荒そうとしない人を
求めていた
やろうとしない人間を 楽しみに待っていた
でも現実が
僕を打ちのめすように
立ちふさがった
小さなこと
たったひとふれで
僕をズタズタにした
神の慈悲を語る時
僕は疑いを 持つようになった
もし 神が本当に存在するなら
必要な時にどうして 僕を捨てた
ほんとうに僕は
またひとりぼっちになった ごく自然に
悲しみに沈む心が
この世にはたくさんあるように思う
いやされない心 放置された心
どうしたらいいのだ
どうしたらいいのだ
あの年月を振り返れば
何はともあれ
忘れられない
父が死んだ時 泣いたこと
隠そうともしなかった あの時の涙
そして65歳の時
神は母の魂に安息を…
母の愛した
ただ一人の男を召して
ボロボロに傷ついた 彼女を
そのままに
なぜだかわからない
僕のはげましにも
かかわらず
何も言わずに
母は逝った
その時僕は 泣き暮らした
またひとりぼっちになった ごく自然に
またひとりぼっちになってしまった
精神に住む阿修羅(アシュラ)の自覚はいつに始まったのか?
私の18歳当時の記録がそれを示しているだろうか。たぶん同時に詩集「イージス」も活発に動き出したのもその時期だった。
以下、日記より
―――――
父は年をとり、定年退職。母は専業主婦。姉達が次々に結婚し始めて、家庭の経済状態が苦しくなり、私立高校に通っていた私は学費を払うのにも事欠くことが余儀なくされた。そして、もとより、そう裕福ではない家庭の手だすけをするため昼間は働き、夜は勉強という定時制高校に入ることを決め、転校した。私立高校の単位は公立高校では役にたたないのでまた高校1年生から再入学した。
そして私の新しい生活が始まった。昼間はストーブの部品をプレス加工する大手電機メーカーの下請け会社に務め、夜は月の光をうけ通学、そして勉強をした。
そして高校2年の時だった、担任の先生に呼び止められ、教頭先生が、話があるとのことで職員室に呼ばれた。職員室に行くと教頭先生が私に会うなり、「いいところに来た、栗城に次の生徒会長をやってくれないか!」と言われた。理由は分からなかったがその場で、「わかりました」と即答した。間もなく生徒会長選挙が開かれ、私は生徒会長に信任された。これを聞いた母は大変喜んでくれた記憶がある。
昼間は働き、夜は勉強し、その後に生徒会活動をした。朝7時30分に家を出て、家に帰るのはだいたい夜の10時30分頃だった。口で言うのは簡単だが、実際に生活するのは時間に追われ大変だった。そして私の任期中の1977年(昭和52年)10月1日(土)、2(日)に文化祭が行われた。私が一番気を使い、一番楽しみにしていた行事であった。沢山の高校生と出会い、話し合い、交流し、また他校の生徒会長との接待、説明、案内、挙句の果てには、もめ事の調整で休む暇もなかった。「ああ、これが青春なんだなぁー」と一人で感じ入っていた。そして次の日(3日)から普通に会社に出勤した(全日制の生徒は代休)。しかし、昭和52年10月4日(火)に生涯忘れることができない事故が起きた。その日の私はとても快調だった。私はストーブの部品形成のプレス機械を操作していた。そして仕事もそろそろ終わりに近づいたところ、ふと鋭い眠気が差し、次の瞬間、機械に吸いこまれるように自分の左手の指が中に入ってしまった。「アァー」、そして2~3分後ひどい激痛が体中を走り回り、気分が悪くなり、一人では立っていられなくなった。そして一瞬、気を失ってしまったのだろう。後ろからきた誰かに抱きかかえられ、私は車に乗せられた。激しい痛みが断続的に体を襲って、「私は取り返しのつかぬことをしてしまった」と直感した。気が付いて、見ると私のズボンの左足の上に大量の血が付いていた。意識があるかないかのうちに、間もなく病院に着き、着くやいなや手術室に運ばれ、左手の指の根元からブスブスと麻酔の注射を数本打たれ、応急手術が終わり、気が付いたらベッドの上だった。そして私の左腕が動かないことに気がついた。その後、担当医師から、「もはや、君の指の接合は出来なかったので、君の左手の人差し指、中指、薬指の第1間接および第2間接を切断した。」と言われた。手術が終わったとはいえ傷みは続き、絶望感が心を支配した。そして絶望感とは裏腹に激しい怒りの心も湧き上がってきた。それはありきたりのやつあたりというもの「一体俺が何をしたというんだ!何か悪いことでもしたと言うのか?」そのテキストの空回りをしばらく眺めている自分がいた。
生徒会でもみんなのために頑張ったとも思っていた。文化祭も無事に成功したし、生徒会長だからみんなの模範になるような行動をしなければならないと思って、気を張ってもいた。
小さい頃からエンジニアになりたいという夢が崩れてしまったではないか!心の中は凄まじく、激しい孤独感と絶望感と恨み心で胸を掻きむしっていた。鈍痛と疼痛の繰り返しがさらにそれを助長する。しかし入院中でも両親、学校の同級生・後輩達も毎日のように見舞いに来てくれた。それで一時は心の励みになるが、1日1回の検診がまたも私の心を掻き乱した。切断された指の断面にガーゼが巻かれ、流れ出る血が固まり、検診の度に、そのガーゼを一気に剥がされる。なんという責苦だ。そのたびに出血し、気の遠くなる痛みが襲ってくる。
「どうしてこんな痛みを受け入れなければならないのか?」と悲観しつつ涙が頬をつたう。その後、「抜糸」の日がきた。もはや左手の指の肉体の一部になっている指の断面に縫い付けられた糸をすべて抜き取る作業だった。この時ばかりは、担当の医師の他に5~6人の看護婦がきた。私一人のためにチームで登場してきたので余計に緊張が増した。私の左手はベッドの左側の台にバンドで固定され、看護婦の一人は私の両足を、他の一人は腰の部分や胸の部分に覆いかぶさるようにして、私の体は固定された。「あまりの痛みのために舌を噛んではいけないよ。」と言って母がタオルを用意してくれたので、そのタオルを口に当てがい、しっかりと奥の方まで入れて噛んだ。手術が始まった。またも気が遠くなる痛みと、自分ではどうすることもできない苦痛をひたすら耐えることしかなかった。涙はかれはて、痛みのためにもがきようにも体は複数の看護婦にしっかりとガードされ逃げようがないのだ。
その時だった。
私の耳元にいた婦長が、こう言った。「あなたは男でしょう。こんな事でへこたれてはいけません。私は子供を2人産みましたが、女が子供を産む苦しみから比べれば、あなたの苦しみはずっと軽いほうなのよ。あなたはこれからずっと男として生きていかなくてはならないのだからしっかりとこの痛みと戦いなさい!」その声には優しさと強さを兼ね備えたように私には聞こえた。
手術が終わりその晩のこと。我に帰りハットして、気が付いた。私の心の中に母の姿が浮かんできた。もしかしたら「母が私を産んでくれた時、母はこんな思いをしたのか、こんな苦しみを味わったのか!」と思うと、次第に胸が熱くなってきた。なぜかそう思うと痛みは和らぎ体中が軽くなってきた。なぜだか、その手術の夜はぐっすりと眠ることができた。
私はこの体験を通して女性が子供を生む苦しみというものの一部を感じたように思う。
1977年(昭和52年)10月4日18歳の秋の出来事だった。
―――――
☆
ゼーレの眼

就職した会社の仕事内容、事故の程度、勤務していた婦長のローテーション、手術の日程と、母の看病そのどれもタイミングが少しでもずれていたら、このような体験はできなかった。あの婦長の言葉は私の精神性を変える大きなきっかけになった。そして大きな励みであり、癒しであり、感謝であり、また安らぎであった。この時、私は、人間の言葉には、人を感動させるより大きな愛情の力を持つことができることを体験で知ることになった。
◇
ちなみに当時の文化祭のパンフレットに私はこんな記事を寄せていた。
*****
新しき友を 定時制生徒会長 栗城利光
今回の足高際は私にとっては、会心事であり、また希望でもあります。めまぐるしく変遷する世の中で、真の友・心の友を得ることが難儀になってきました。学歴重視主義とかエゴイズムが拍車を加えてか、自分の中に閉じこもる人がふえてきたように感じます。孤独の人がふえれば、その人自身、悩み、苦しみも多くなると思います。その時こそ必要なのは「友」にほかなりません。だからといって、相手が来るまで待っているのは問題です。どうか皆さんも勇気を出して、1人でも友だちを作ってもらいたいですね。
この足高際を転機として、皆さんに幸福多かれと嘆願しつつ・・・・・・友誼最上。
1977年10月1日(土)・2日(日)栃木県立足利高等学校・テーマ「広げようこころのつながり」
*****
私はこの文化祭の2日後に生涯離れることはないだろうとてつもない友人と出会うことになったのだ…。
◇
AEGIS シリーズ全編及び「ゼーレの眼」と画像(You Tubeコンテンツは除く)
転載、コピー等はご遠慮ください。
Copyright(c)1999-2011 Toshimitsu Kuriki. All Rights Reserved.
テーマにシンクロする曲

とても印象的なメロディライン、歌詞の内容はシリアスだが、あの当時の自分には合っていた。つらい時に元気が出る曲だ。ギルバートは1970年代を代表する希代のメロディ・メーカーと言われ、この曲は彼の最高のヒット曲である。全米で6週間№1を獲得し、イギリスを含むヨーロッパで最高3位にまでのぼった。また世界中のアーティストにカヴァーされている。日本でこれまで様々な番組・CMで幾度となく起用され、アニメ「めぞん一刻」のテーマにも使われていた。
曲「アローン・アゲイン」:歌「ギルバート・オサリバン」
ALONE AGEIN(Naturally) Gilbert O'Sullivan
僕はたとえ不幸せではなくても
今すぐに
近くの塔に行き
頂上まで登り
身を投げることも
平気でできると思う
くじけている人に
はっきり見せるため
助けもなしに佇む
教会で
僕の様子を見ながら
人々が話していた
“神よ 彼女は息子を育て上げた
あれはしっかりしている
もう大丈夫だから帰りましょう“
自分でしたことだが
またひとりぼっちになった ごく自然に
きのうを振り返れば
僕は明るく陽気で
僕の領分を荒そうとしない人を
求めていた
やろうとしない人間を 楽しみに待っていた
でも現実が
僕を打ちのめすように
立ちふさがった
小さなこと
たったひとふれで
僕をズタズタにした
神の慈悲を語る時
僕は疑いを 持つようになった
もし 神が本当に存在するなら
必要な時にどうして 僕を捨てた
ほんとうに僕は
またひとりぼっちになった ごく自然に
悲しみに沈む心が
この世にはたくさんあるように思う
いやされない心 放置された心
どうしたらいいのだ
どうしたらいいのだ
あの年月を振り返れば
何はともあれ
忘れられない
父が死んだ時 泣いたこと
隠そうともしなかった あの時の涙
そして65歳の時
神は母の魂に安息を…
母の愛した
ただ一人の男を召して
ボロボロに傷ついた 彼女を
そのままに
なぜだかわからない
僕のはげましにも
かかわらず
何も言わずに
母は逝った
その時僕は 泣き暮らした
またひとりぼっちになった ごく自然に
またひとりぼっちになってしまった